判例

S63.06.01 大法廷・判決 昭和57(オ)902 自衛隊らによる合祀手続の取消等(第42巻5号277頁)

判示事項:

一 私的団体が護国神社に対し殉職自衛隊員の合祀を申請する過程において自衛隊職員のした行為が憲法二〇条三項にいう宗教的活動に当たらないとされた事例

二 死去した配偶者の追慕、慰霊等に関して私人がした宗教上の行為によつて信仰生活の静謐が害された場合と法的利益の侵害の有無

要旨:

一 社団法人隊友会の山口県支部連合会が由口県護国神社に対して殉職自衛隊員の合祀を申請する過程において、自衛隊地方連絡部の職員が合祀実現により自衛隊員の社会的地位の向上と士気の高揚を図る意図目的の下に右連合会に協力して、他の地方連絡部に対し殉職自衛隊員の合祀状況等を照会し、その回答を右連合会会長に閲覧させるなどした行為は、宗教とのかかわり合いが間接的で、職員の宗教的意識もどちらかといえば希薄であり、その行為の態様からして国又はその機関として特定の宗教への関心を呼び起こし、あるいはこれを援助、助長、促進し、又は他の宗教に圧迫、干渉を加える効果をもつものと一般人かち評価される行為とは認められず、憲法二〇条三項にいう宗教的活動に当たらない。

二 死去した配偶者の追慕、慰霊等に関して私人がした宗教上の行為によつて信仰生活の静謐が害されたとしても、それが信教の自由の侵害に当たり、その態様、程度が社会的に許容し得る限度を超える場合でない限り、法的利益が侵害されたとはいえない。



主    文

     原判決を破棄し、第一審判決を取り消す。
     被上告人の請求を棄却する。
     訴訟の総費用は被上告人の負担とする。
         

理    由

 上告代理人柳川俊一、同篠原一幸、同根本眞、同石井宏治、同山田雅夫、同木村要、同佐藤拓、同岩佐栄夫、同川久保悳、同高橋健一郎、同本間久義、同市橋史麿、同工藤洋房、同山本福夫の上告理由について
 一 原審の確定した事実関係は、次のとおりである。
 1 (一) 被上告人は昭和三三年四月四日日本キリスト教団山口信愛教会において洗礼を受け、以来キリスト教を信仰してきた。(二) 被上告人は昭和三四年一月一日自衛隊員であるAと宗教的行為を伴わない結婚式を挙げ、主として盛岡市において結婚生活を営んでいたが、昭和四三年一月一二日Aは岩手県釜石市内において公務従事中交通事故により死亡した。(三) 被上告人は、Aが死亡した直後、自衛隊岩手地方連絡部の準備により行われたAの仏式による葬儀に喪主として参列し、その後Aの父Bが山口県防府市で行つた仏式の葬儀にも参列し、BはAに戒名を付してもらい、遺骨を仏壇に安置した。(四) Aの死後被上告人は一時B宅に身を寄せたが、約二か月後Aの遺骨の一部をもつてB宅を出て別居し、同人の気持を考慮して仏壇と位牌を置き僧侶を呼んで読経してもらつたが、二、三か月後には仏壇を取り払い、昭和四四年前記教会の納骨堂に遺骨を納め、毎年一一月同教会の行う永眠者記念礼拝にも子Cとともに毎回出席し、以来、被上告人はキリスト教の信仰の下に日曜日には教会で礼拝し、Aの死の意味を求め、追悼し、キリスト教の信仰を心のよりどころとして生活している。(五) なお、Aは生前宗教を信仰することはなかつた。
 2 (一) 昭和三九年一一月社団法人隊友会の山口県支部連合会(以下「県隊友会」という。)は、その主催で自衛隊発足以来同年三月までに殉職した山口県出身の自衛隊員一二名の慰霊祭を宗教法人山口県護国神社(以下「県護国神社」という。)において行つたが、その慰霊祭後の直会の席上、遺族の中から殉職者を同神社に祀つてもらいたいとの希望が出され、これを受けて、県隊友会のD会長やE副会長は折にふれ同神社の宮司に対し合祀を要望したが、その賛同を得られないまま年月が経過した。(二) 昭和四五年秋に至り県隊友会のE会長(同年二月から前記E副会長が会長になつた。)は同神社のF宮司から合祀実現が可能であるとの感触を得たので、昭和四六年三月から六月ころの県隊友会の役員会に合祀申請を行うことを諮つてその了承を得た。(三) 同年三月陸上自衛隊第一三師団の師団長が開催した中国四国外郭団体懇談会において、E会長が右合祀問題の進捗状況を報告したところ、師団長は合祀に賛意を表し、これを推進することを要望した。この席には自衛隊山口地方連絡部(以下「地連」という。)のG部長も同席していたことから、地連において遺族援護業務の一環として県隊友会による合祀申請を積極的に推進する態勢がとられるに至つた。(四) その後、地連のH総務課長とE会長は合祀実現の方策を検討し、同年五月二二日H総務課長は、既に殉職自衛隊員が護国神社に合祀されていると聞いていた九州各県(長崎県を除く。)の自衛隊地方連絡部の総務課長にあてて、各地の護国神社における殉職自衛隊員の合祀状況、右合祀に対する賛否両論の主要論旨、右合祀に対する各地の護国神社や戦没者遺族等の意向、殉職自衛隊員を合祀済みであればその経緯などを照会する文書を発し、同年六月末ころまでにこれに対する詳細な回答があり、H総務課長はこれをE会長に閲覧させた。(五) E会長は、同年七月以降右回答結果をもとに県護国神社のF宮司と折衝し、同年秋に至つて同宮司から基本的に了解を得、同宮司の依頼により同神社に対し合祀の請願書を提出した。(六) E会長は、合祀申請を準備するため山口県自衛隊父兄会連合会のI会長と諮つて同年末ころまでの間に自衛隊殉職者奉賛会を設立し、Iが会長に、Eが副会長に就任したが、Iは東京に居住していたので、奉賛会の業務はEが執行することになり、Eは引き続きF宮司と折衝を重ねながら、Iとの間において、合祀されるべき殉職者の資格要件と手続、奉賛会の対外的な業務は県隊友会の名義と責任において行うこと並びに必要な費用のため右父兄会連合会、県隊友会の各会員及び山口県出身の現職自衛隊員から寄付金を募ることを取り決めた。(七) E会長は、右合意事項のうち費用の点を除く部分を文書化すること、募金趣意書の起案、配布及び寄せられる募金の管理を地連のJ事務官に依頼した。(八) J事務官は、E会長の右依頼により、F宮司と打合せを重ねながら、県隊友会のする合祀申請の基準等を定めるとともに右父兄会連合会会長及び県隊友会会長の合意承認により効力を発生するものとした山口県護国神社における自衛隊殉職者の奉斎実施準則(以下「奉斎準則」という。)を起案し、昭和四七年三月二四日右父兄会連合会のI会長と県隊友会のE会長がこれを認証した。(九) J事務官は寄せられた募金約八〇万円を保管した。(一〇) E会長は、県護国神社への合祀申請に必要な書類の取揃えをJ事務官に依頼し、同事務官は合祀対象者の遺族を通じて対象者の除籍謄本と殉職証明書を収集すべく、地連の出張所長及び地区班長に対し遺族から右書類を取り寄せることを依頼した。(一一) 同年三月三一日ころ県隊友会は、同会長名義をもつて、同年三月当時の山口県出身殉職自衛隊員として、Aを含む二七名の合祀を県護国神社に申請し(以下この申請を「本件合祀申請」という。)、同年四月一九日同神社は右殉職自衛隊員を新たに祭神として合祀する鎮座祭を斎行し、直会の儀を挙行し、翌二〇日慰霊大祭を斎行した。
 3 (一) 昭和四七年四月五日被上告人は、合祀の資料収集のため被上告人方を訪れた地連のK事務官に対し、自己の信仰を明らかにしてAの合祀を断る旨を告げ、また、その直後県議国神社のF宮司と県隊友会のE会長との連名の鎮座祭斎行等の通知と参拝の案内状が配達されているのを発見し、K事務官に架電して再度合祀を断る旨を告げた。(二) E会長は同月一〇日ころ地連のJ事務官から被上告人の意向の連絡を受けたが、Aについての合祀申請を撤回することはしなかつた。(三) 同年七月五日県護国神社宮司から被上告人にあてた同年六月一日付の「御祭神A命奉慰のため御篤志をもつて永代神楽料御奉納相成り感佩の至りに存じます今後毎年一月一二日の祥月命日を卜して命日祭を斎行しこれを永代に継続いたします」との書面が右J事務官によつて被上告人に届けられた。
 二 原審は、右事実関係の下において大要次のとおり判断し、被上告人の損害賠償請求を認容すべきものとした。
 1 本件合祀申請は、県護国神社への合祀が行われるための前提をなすものとして、基本的な宗教的意義を有しており、かつ、同神社の宗教を助長、促進する行為であるから、宗教的活動というべきである。
 2 本件合祀申請は、県隊友会の発意により、その費用をもつて、その名義によつてされている。しかし、地連職員の一連の行為がなければ、本件の如くに合祀申請に至つたとはみられない状況にあり、地連職員がこのように積極的に関与してきたのは、殉職者の合祀が自衛隊員の社会的地位の向上と士気の高揚の効果をもたらすもので地連自身も是非その実現を図りたいと考えていたからと推認され、地連職員と県隊友会は合祀実現を相謀り役割りを分担しつつ準備して、県隊友会の名義で本件合祀申請に及んだもので、本件合祀申請は地連職員と県隊友会の共同の行為とみることができる。
 3 県隊友会と共同して本件合祀申請をした地連職員の行為は、憲法二〇条三項に違反することにより、公の秩序に反するものとして、私人に対する関係で違法な行為というべきである。
 4 被上告人は、本件合祀申請によるAの県護国神社への合祀によつて静謐な宗教的環境の下で信仰生活を送るべき法的利益、すなわち宗教上の人格権を侵害された。
 三 しかしながら、原審の右判断は是認することができない。その理由は次のとおりである。
 1 本件合祀申請を地連職員と県隊友会の共同の行為と評価すべきか否かを検討する。
 合祀は、神社にとつて最も根幹をなすところの奉斎する祭神にかかわるものであり、当該神社の自主的な判断に基づいて決められる事柄であることはいうまでもないところ、本件合祀申請に至る経緯をみると、県護国神社による殉職自衛隊員の合祀問題は、昭和三九年一一月に行われた慰霊祭の際における殉職自衛隊員の遺族からの県隊友会への要望に端を発し、その実現に向けて県隊友会が働き掛けた結果、県護国神社は当初難色を示したものの、既に昭和四五年秋には県隊友会のE会長は同神社のF宮司から合祀実現が可能であるとの感触を得ていたというのである。その後、E会長が合祀申請を行うことについて県隊友会の役員会の了承を得て同宮司と折衝した結果、昭和四六年秋には同神社は殉職自衛隊員を合祀する方針をとるに至つたのであり、引き続き同宮司と折衝を重ねながら合祀のために県隊友会としてなすべき事項について同宮司と了解に達したのも、E会長である。また、合祀申請を準備するため自衛隊殉職者奉賛会を設立したのも、E会長が中心となつてしたことである。
 昭和四六年三月中国四国外郭団体懇談会の席上において、E会長がした合祀問題の進捗状況の報告に対し陸上自衛隊第一三師団長の賛意の表明と推進の要望があり、その後地連において合祀申請を積極的に推進する態勢がとられるに至つたというのが原審の確定するところであるが、本件合祀申請に至る過程において地連職員のした具体的行為は、H総務課長において長崎県を除く九州各県の自衛隊地方連絡部の総務課長にあてて各地の護国神社における殉職自衛隊員の合祀状況等を照会して、その回答をE会長に閲覧させ、E会長の依頼によりJ事務官において奉斎準則と県隊友会の募金趣意書とを起案し、右趣意書を配布し、寄せられた募金を管理し、殉職者の遺族から合祀に必要な殉職者の除籍謄本及び殉職証明書を取り寄せたにとどまるのであり、地連ないしその職員が直接県護国神社に対し合祀を働き掛けた事実はない。
 これらの事実からすれば、Aを含む殉職自衛隊員二七名の県護国神社による合祀は、基本的には遺族の要望を受けた県隊友会がその実現に向けて同神社と折衝を重ねるなどの努力をし、同神社が殉職自衛隊員を合祀する方針を決定した結果実現したものである。してみれば、県隊友会において地連職員の事務的な協力に負うところがあるにしても、県隊友会の単独名義でされた本件合祀申請は、実質的にも県隊友会単独の行為であつたものというべく、これを地連職員と県隊友会の共同の行為とし、地連職員も本件合祀申請をしたものと評価することはできないものといわなければならない。原審は、地連は自衛隊員の社会的地位の向上と士気の高揚のため殉職自衛隊員の合祀の実現を図りたいと考えていたと推認されると判示しているが、地連職員のした具体的行為が右のとおりであつてみれば、右推認をもつてしても右判断を左右することはできない。
 2 本件合祀申請に至る過程において県隊友会に協力してした地連職員の行為が、憲法二〇条三項にいう宗教的活動に当たるか否かを検討する。
 右条項にいう宗教的活動とは、宗教とかかわり合いをもつすべての行為を指すものではなく、当該行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいい、ある行為が宗教的活動に該当するかどうかを検討するに当たつては、当該行為の行われる場所、当該行為に対する一般人の宗教的評価、当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度、当該行為の一般人に与える効果、影響等、諸般の事情を考慮し、社会通念に従つて、客観的に判断しなければならないものである(最高裁昭和四六年(行ツ)第六九号同五二年七月一三日大法廷判決・民集三一巻四号五三三頁)。
 合祀は神社の自主的な判断に基づいて決められる事柄であることは前記のとおりであつて、何人かが神社に対し合祀を求めることは、合祀のための必要な前提をなすものではなく、本件において県護国神社としては既に昭和四六年秋には殉職自衛隊員を合祀する方針を基本的に決定していたことは原審の確定するところである。してみれば、本件合祀申請という行為は、殉職自衛隊員の氏名とその殉職の事実を県護国神社に対し明らかにし、合祀の希望を表明したものであつて、宗教とかかわり合いをもつ行為であるが、合祀の前提としての法的意味をもつものではない。そして、本件合祀申請に至る過程において県隊友会に協力してした地連職員の具体的行為は前記のとおりであるところ、その宗教とのかかわり合いは間接的であり、その意図、目的も、合祀実現により自衛隊員の社会的地位の向上と士気の高揚を図ることにあつたと推認されることは前記のとおりであるから、どちらかといえばその宗教的意識も希薄であつたといわなければならないのみならず、その行為の態様からして、国又はその機関として特定の宗教への関心を呼び起こし、あるいはこれを援助、助長、促進し、又は他の宗教に圧迫、干渉を加えるような効果をもつものと一般人から評価される行為とは認め難い。したがつて、地連職員の行為が宗教とかかわり合いをもつものであることは否定できないが、これをもつて宗教的活動とまではいうことはできないものといわなければならない。
 なお、憲法二〇条三項の政教分離規定は、いわゆる制度的保障の規定であつて、私人に対して信教の自由そのものを直接保障するものではなく、国及びその機関が行うことのできない行為の範囲を定めて国家と宗教との分離を制度として保障することにより、間接的に信教の自由を確保しようとするものである(前記最高裁大法廷判決)。したがつて、この規定に違反する国又はその機関の宗教的活動も、それが同条一項前段に違反して私人の信教の自由を制限し、あるいは同条二項に違反して私人に対し宗教上の行為等への参加を強制するなど、憲法が保障している信教の自由を直接侵害するに至らない限り、私人に対する関係で当然には違法と評価されるものではない。
 3 被上告人の法的利益の侵害の有無を検討する。
 被上告人は、本件合祀申請によりAの合祀がされ、法的利益を侵害された旨を主張するが、合祀は神社の自主的な判断に基づいて決められる事柄で、本件合祀申請は合祀の前提としての法的意味をもつものではないことは前記のとおりであるから、合祀申請が神社のする合祀に対して事実上の強制とみられる何らかの影響力を有したとすべき特段の事情の存しない限り、法的利益の侵害の成否に関して、合祀申請の事実を合祀と併せ一体として評価すべきものではないというべきである。そうであつてみれば、本件合祀申請が右のような影響力を有したとすべき特段の事情の主張・立証のない本件においては、法的利益の侵害の成否は、合祀それ自体が法的利益を侵害したか否かを検討すれば足りるものといわなければならない。また、合祀それ自体は県護国神社によつてされているのであるから、法的利益の侵害の成否は、同神社と被上告人の間の私法上の関係として検討すべきこととなる。
 私人相互間において憲法二〇条一項前段及び同条二項によつて保障される信教の自由の侵害があり、その態様、程度が社会的に許容し得る限度を超えるときは、場合によつては、私的自治に対する一般的制限規定である民法一条、九〇条や不法行為に関する諸規定等の適切な運用によつて、法的保護が図られるべきである(最高裁昭和四三年(オ)第九三二号同四八年一二月一二日大法廷判決・民集二七巻一一号一五三六頁参照)。しかし、人が自己の信仰生活の静謐を他者の宗教上の行為によつて害されたとし、そのことに不快の感情を持ち、そのようなことがないよう望むことのあるのは、その心情として当然であるとしても、かかる宗教上の感情を被侵害利益として、直ちに損害賠償を請求し、又は差止めを請求するなどの法的救済を求めることができるとするならば、かえつて相手方の信教の自由を妨げる結果となるに至ることは、見易いところである。信教の自由の保障は、何人も自己の信仰と相容れない信仰をもつ者の信仰に基づく行為に対して、それが強制や不利益の付与を伴うことにより自己の信教の自由を妨害するものでない限り寛容であることを要請しているものというべきである。このことは死去した配偶者の追慕、慰霊等に関する場合においても同様である。何人かをその信仰の対象とし、あるいは自己の信仰する宗教により何人かを追慕し、その魂の安らぎを求めるなどの宗教的行為をする自由は、誰にでも保障されているからである。原審が宗教上の人格権であるとする静謐な宗教的環境の下で信仰生活を送るべき利益なるものは、これを直ちに法的利益として認めることができない性質のものである。
 以上の見解にたつて本件をみると、県護国神社によるAの合祀は、まさしく信教の自由により保障されているところとして同神社が自由になし得るところであり、それ自体は何人の法的利益をも侵害するものではない。そして、被上告人が県護国神社の宗教行事への参加を強制されたことのないことは、原審の確定するところであり、またその不参加により不利益を受けた事実、そのキリスト教信仰及びその信仰に基づきAを記念し追悼することに対し、禁止又は制限はもちろんのこと、圧迫又は干渉が加えられた事実については、被上告人において何ら主張するところがない。県護国神社宮司から被上告人あてに発せられた永代命日祭斎行等に関する書面も、その内容は前記一の3の(三)のとおりであつて、被上告人の信仰に対し何ら干渉するものではない。してみれば、被上告人の法的利益は何ら侵害されていないというべきである。
 本訴において被上告人は、被侵害利益として、(一)宗教上の人格権、(二)宗教上のプライバシー及び(三)政教分離原則が保障する法的利益を選択的に主張しているが、(一)及び(二)は、その主張内容をみればいずれも原審が宗教上の人格権とするところのものと結局同一に帰するのであつて、これらを法的利益として認めることができないことは右に述べたとおりであり、(三)は憲法二〇条三項の規定が私人に対し法的利益を保障していることを主張するものであるところ、右規定は前記のとおりいわゆる制度的保障の規定であつて、私人の法的利益を直接保障するものではないから、このような法的利益もまたこれを認めることができない。
 原審の判断には、憲法二〇条の解釈適用を誤つた違法があり、また、法令の解釈適用を誤つた違法があつてその違法は判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、論旨は理由があり、原判決は破棄を免れない。そして、以上によれば、被上告人の本訴請求は理由がないことが明らかであるから、これを認容した第一審判決を取り消し、被上告人の本訴請求を棄却すべきである。
 よつて、民訴法四〇八条、三九六条、三八六条、九六条、八九条に従い、裁判官長島敦の補足意見、裁判官島益郎、同四ツ谷巖、同奧野久之の補足意見、裁判官島谷六郎、同佐藤哲郎の意見、裁判官坂上壽夫の意見、裁判官伊藤正己の反対意見があるほか、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。
 裁判官長島敦の補足意見は、次のとおりである。
 私は多数意見と見解を同じくするものであるが、若干の点について、私の意見を補足したい。
 一 信教の自由と宗教的寛容さについて
 県護国神社が昭和四七年四月一九日、山口県出身殉職自衛隊員として、Aを含む二七名を新たに祭神として合祀する鎮座祭を斎行し、直会の儀を挙行し、翌二〇日慰霊大祭を斎行した(以下これら行事を併せて「本件合祀行為」という。)ことが、宗教上の行為、儀式ないし行事に当たることはいうまでもない。
 ところで、憲法二〇条一項前段は、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」とし、他方、同条三項は、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」としているから、国及びその機関を除く何人も宗教的活動をする自由を憲法上保障されているといわなければならない。つまり、宗教法人法二条に「宗教団体」として定義されている「礼拝の施設を備える神社、寺院、教会、修道院その他これらに類する団体」及びこれらの「団体を包括する教派、宗派、教団、教会、修道会、司教区その他これらに類する団体」はもとより、これらに含まれない団体又は個人もひとしく信教の自由を保障されているのである。宗教法人法一条二項は、この趣旨を明らかにして、「憲法で保障された信教の自由は、すべての国政において尊重されなければならない。従つて、この法律のいかなる規定も、個人、集団又は団体が、その保障された自由に基いて、教義をひろめ、儀式行事を行い、その他宗教上の行為を行うことを制限するものと解釈してはならない。」と定めている。このようにして、真の信教の自由は、その歴史的沿革、信者の数の多少その他当該宗教をめぐる諸般の情況のいかんにかかわらず、すべての宗教がその教義をひろめ、儀式行事を行い、その他宗教上の行為を行う自由をひとしく保障されるところに成り立つのであつて、これをその反面からみれば、各宗教には他の宗教が憲法上保障されている宗教上の行為に干渉せず、これを妨げないという寛容さが、憲法上要請されているものということができる。このことは信者においても同様であり、各宗教の信者にも、他の宗教の行う宗教上の行為について、それが宗教団体その他の団体、集団によつて行われるものであれ、その信者によつて行われるものであれ、たとえそれに対し不快感をもつたとしても、これを受忍すべき寛容さが求められているものというべきである。もし逆にこのような不快感を理由に、人格権の侵害があるとし、法的救済を求めることができるとするならば、宗教団体等や信者が行う宗教上の行為、特にその宗教の教義をひろめるため、他の者に対し伝道、布教や宗教教育を行うような行為、あるいは信仰を異にする者のために祈る行為などは、すべて他の宗教の信者から損害賠償や差止めを訴求されるおそれがある行為ということになる。仮に宗教団体等や信者が行うそのような行為は、法的利益の侵害行為ではあるが、その法的利益はそれほど強いものではなく、その侵害行為の違法性も高くないから、相手方が受忍すべき限度内のものというべきで、不法行為は成立しないとの見解に立つとしても、これらの行為が他者に不快感を与えることにより、軽微とはいえその法的利益を侵害するものであるという以上、宗教団体等や信者として本来してはならない行為ということになつてしまうことには変わりはないのである。かくては、特に伝道、布教を活動の中心とする宗教においてその打撃が大きく、憲法が信教の自由を保障している趣旨は、全く没却されるといつて過言ではない。そして、右に述べたように、憲法は、その宗教の我が国における歴史的沿革や信者の多少にかかわらず、どのような宗教に対しても、またどのような宗教を信ずる者に対しても平等に信教の自由を保障しているのであつて、いわゆる宗教的少数者といわれる立場にある者を特別に保護しようとしているものではないから、このような者もその例外ではなく、ひとしくこの寛容さが求められていることはいうまでもない。
 さらに、この理は、死去した自己の配偶者や近親者を自己の信仰する宗教以外の宗教で慰霊し、あるいは信仰の対象とする者がある場合でも、同様であり、たとえその宗教上の行為に対し不快感を抱いても、これを受忍すべき寛容さが求められているのである。けだし、信教の自由は、何人に対しても、自己が慰霊の対象として選んだものを自己の信仰する宗教により慰霊し、また自己の信仰の対象として選んだものを信仰し、祈りをささげる自由を保障しているのであり、それは、慰霊や信仰の対象が縁故者であろうとなかろうと同じであるし、また信仰の対象が故人であつても、生存者であつても、さらには人間以外の生物、無生物、天然事象その他何であつても、異なるところはないからである。
 なお、ここで故人の近親者間の問題について一言する。信教の自由は、各個人に対し保障されているのであつて、今日においていわゆる家の宗教なるものが存在しないことはいうまでもないし、家族や近親者の間においても、相互に信仰を異にすることもまれではない。現に原審の判示するところによれば、Aの父BがAの葬儀を仏式で挙行し、遺骨を仏壇に安置しておいたところ、被上告人は遺骨の一部を帯出した後、これをキリスト教会の納骨堂に納め、同教会の永眠者記念礼拝に出席しているというのであり、またBはAの合祀を非常にうれしく思い、Aの弟妹と連名でAの合祀について被上告人の希望を容れないで欲しい旨の嘆願書を県隊友会あてに送付しているというのである。故人の追慕、慰霊に関して、近親者のうち特に配偶者の意向を父母又は子の意向に優先させるべき法理は見当たらないし、相互に信仰を異にする近親者が故人の追慕、慰霊に関し他の近親者のとつた宗教上の行為に対する不快感を理由に、相互に法的救済を求めることができるとするならば、真に収拾のつかない事態に立ち至ることが明らかである。近親者相互間においても、互いに寛容さが要請されるのである。
 さて、憲法二〇条二項は「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。」と規定する。もとよりこの規定は、公権力による強制を禁止した規定であるが、私人相互間においてこのような強制にわたる行為があつた場合にも、その態様、程度が社会的に許容し得る限度を超えるときは、場合によつては、不法行為に関する諸規定等の適切な運用によつて、法的保護が図られるべきことは、多数意見の説示するとおりである。そして、このことから私人相互間においての団体、集団及び個人による宗教上の行為の許容される範囲、つまり、それに対して不快感を抱く者も、信教の自由が保障されている下では、法的利益の存在を主張できない限界が導き出されるというべきであろう。それは、強制、その反面としての禁止又は制限、圧迫又は干渉の有無である。
 してみれば、本件において、県護国神社が行つた本件合祀行為が被上告人の法的利益を侵害したものというべきか、それとも同神社に保障された信教の自由の範囲内のものというべきかは、右合祀行為それ自体及びそれに至る過程において、同神社が被上告人に対し同神社の行う宗教上の行為、儀式又は行事等に参加するよう強制し、あるいは被上告人の信仰又はそれに基づく行為に対し、禁止又は制限、圧迫又は干渉が加えられたと評価し得る点があつたか否かによつて決せられるべきことになろう。
 そこで、本件合祀行為及びそれに至る経緯をみると、県隊友会は、昭和四七年三月三一日ころ、同会長名義をもつて、Aを含む二七名の合祀を県護国神社に申請したところ、被上告人は同年四月五日、合祀の資料収集のため被上告人方を訪れた地連職員に対し、はじめて、自己の信仰を明らかにしてAの合祀を断る旨を告げたので、同月一〇日ころ地連職員が県隊友会のE会長に被上告人の右意向を連絡したが、同会長はAについての合祀申請を撤回せず、前記のとおり同月一九日及び二〇日の両日県護国神社によつて本件合祀行為が行われたこと、そして被上告人が県護国神社の宗教行事への参加を強制されたことのないことは、原審の確定するところであり、またその不参加により不利益を受けた事実、その信仰及びこれに基づくAの記念追悼に禁止又は制限や圧迫又は干渉が加えられた事実については、何らの主張もなく、県護国神社宮司から発せられた永代命日祭斎行等に関する書面も、被上告人の信仰に対し何ら干渉するものでないことは、多数意見の説示するとおりである。そうだとすれば、本件合祀行為に関して、同神社が被上告人に対し同神社の行う宗教上の行為、儀式又は行事に参加するよう強制し、あるいは被上告人の信仰又はそれに基づく行為に対し、制限又は禁止、圧迫又は干渉が加えられたと評価する余地は全くなく、本件合祀行為により被上告人の法的利益は、何ら侵害されていないというべきである。
 私も、被上告人の意に反して本件合祀行為がされ、静謐な宗教的環境の下で自己の信仰に従い亡夫を追慕し、その魂の安らぎを求めつつ信仰生活を送るという利益を害されたとする被上告人の心情は、これを理解するにやぶさかではないが、前記のとおり、信教の自由を真に保障するためには、すべての人がその信仰いかんにかかわらず、他者の宗教上の行為を受忍すべきことが要請されていることに想いをいたすと、被上告人のいう心の静謐を法的に保護された利益として認めるわけにはいかないのである。
 二 地連職員の行為と宗教的活動について
 本件合祀申請は、地連とは別の組織である社団法人隊友会の山口県支部連合会(県隊友会)の発意により、その費用をもつて、その名義によつてされていることは、原審の判示するところである。それにもかかわらず原審は、この合祀申請について、合祀申請をした一点でとらえるのではなく、合祀申請に至る一連の経緯の中でとらえるならば、地連職員と県隊友会の共同の行為とみることができると判断するのである。一連の経緯の中で検討を試みることには、何の異論もない。しかしながら、原審の認定しているところによつて右合祀申請がされるに至つた過程をみても、殉職自衛隊員の合祀問題は、県隊友会に対する遺族からの要望に端を発したもので(原審は、陸上自衛隊第一三師団長の賛意の表明と推進の要望を重視するが、これは遺族の要望があつて六年余の後のことであり、発端は遺族から県隊友会への要望である。)、県隊友会の会長は、県護国神社宮司から合祀実現可能との感触を得た後、県隊友会の役員会に合祀申請を行うことを諮つてその了承を得るという組織としての正規の手続を経た上で、県護国神社宮司と合祀について折衝し、合意に達しているのであり、地連ないしその職員が直接県護国神社に合祀を働き掛けた事実は全くないのである。なるほど右過程において地連職員は、長崎県を除く九州各県の自衛隊地方連絡部の総務課長にあてて各地の護国神社における殉職自衛隊員の合祀状況等を照会し、その回答を県隊友会の会長に閲覧させ、同会長の依頼により奉斎準則と県隊友会の募金趣意書を起案し、右趣意書を配布し、寄せられた募金を管理し、殉職者の遺族から合祀に必要な殉職者の除籍謄本及び殉職証明書を取り寄せている(起案した奉斎準則は、県護国神社の準則ではなく、県隊友会のする合祀申請の基準等を定めたものであり、また募金は、県隊友会としてした募金であつて、地連ないしその職員としてしたものではない。)。しかし、地連職員のした具体的行為がこの程度の行為にとどまるのに、本件合祀申請をとらえて、県隊友会と地連職員の共同の行為と評価することができるであろうか。当時県隊友会の事務局は、地連の建物内にあり、専任の事務員はおらず、県隊友会の業務の大半は地連職員が代行していたということも重視されている事実の一つであるが、我が国の社会に存在する会員相互の親睦等を目的とする各種団体、例えば学校の同窓会などの中には、組織の脆弱なものがあり、そのような団体にあつては、その母体である組織の建物の中に事務局をおき、役員以外には専任の事務員はおらず、その事務処理は、加入者名簿の作成整備、会費の受入れや管理から各種行事の実施に至るまで、大なり小なりその母体である組織に属する者の事務的な協力に支えられているものがあるのが、その実状かと思われる。世人は、このような団体がその発意により、その資金をもつて、その名義によつて行つている活動をもつて、当該団体と母体である組織に属する者との共同の行為と評価し、ひいては母体である組織に属する者のした活動と評価しているであろうか。県隊友会の事務局が地連の建物内にあり、専任の事務員はおらず、地連職員が代行していたという事実は、共同の行為と評価すべきか否かの判断に当たつて、さして重視すべきものではないと考えられる。本件において、原審の認定する具体的事実に着眼して評価する限り、いかに本件合祀申請に至る一連の経緯の中でとらえるとしても、県隊友会がその発意で、その費用で、その名義でした本件合祀申請を、地連職員との共同の行為と評価することはできないのである。
 そのほか原審の判示するところをみると、昭和三八年ころ以降自衛隊の幹部職員が全国各地における殉職自衛隊員の合祀の祭典の実施に公然と参画し、あるいは合祀実現について積極的な言動をしてきたとし、前記の陸上自衛隊第一三師団長の合祀に対する賛意の表明と推進の要望の後、地連において合祀申請を積極的に推進する態勢がとられるに至つたと推認されるとし、また社団法人隊友会は、自衛隊諸業務に対する各種協力をその事業の一つとするもので、県隊友会と地連とは密接な関係にあつたとし、さらに地連は自衛隊員の社会的地位の向上と士気の高揚のため殉職自衛隊員の合祀の実現を図りたいと考えていたと推認されるなどとしているが、このようなことから地連職員による県隊友会への協力が積極的に行われ、またこれらが県隊友会による県護国神社宮司の合祀決断へ向けての説得に有利に作用したことがあつたとしても、地連職員のした前記具体的行為からすれば、これらも地連職員が実質的に本件合祀申請を行つたとの評価に導くに足るものではない。
 してみれば、本件において地連職員に憲法二〇条三項にいう宗教的活動と評価し得る行為があつたか否かは、その行つた具体的行為について検討するほかないところ、その具体的行為をみると、それは宗教上の式典、儀式、行事又は布教、教化宣伝活動のように、それ自体独立して宗教的意義を目的とする行為ではないことはもとより、県護国神社のした本件合祀行為とのかかわり合いも間接的、二次的なものにすぎず、その意識も自衛隊員の社会的地位の向上と士気の高揚という世俗的なもので、宗教的意識は希薄と認められ、その行為の態様からしても、国又はその機関として特定の宗教への関心を呼び起こし、あるいはこれを援助、助長、促進し、又は他の宗教に圧迫、干渉を加えるような効果をもつものと一般人から評価される行為とは認め難く、憲法二〇条三項にいう宗教的活動に当たらないことは、多数意見の説示するとおりなのである。
 被上告人の主張は、この点からも理由がない。
 三 しかしながら、憲法がその二〇条三項に政教分離規定を設けた趣旨にかんがみるときは、本件合祀申請に至る過程における地連職員の行為の中には、より慎重であることが望ましかつたものがあり、特に本件合祀行為が終了した後のある地連職員の言動の中には、行き過ぎの感を免れず、公務員としては自粛が求められるもののあることは、裁判官島益郎、同四ツ谷巖、同奧野久之の補足意見のとおりであり、この点において、私は右補足意見に同調する。
 裁判官島益郎、同四ツ谷巖、同奧野久之の補足意見は、次のとおりである。
 本訴は、これを法律的にみた場合には請求棄却を免れないものであり、我々もこの点において多数意見とその見解を一にするものであるが、本件合祀申請に至る過程において地連職員が県隊友会に協力してした行為やその後の地連職員の言動に関連して、若干の意見を補足しておくこととしたい。
 本件合祀申請はその名義どおり県隊友会単独の行為というべきであり、これを地連職員と県隊友会の共同の行為とし、地連職員も本件合祀申請をしたものと評価することはできないし、本件合祀申請に至る過程における地連職員の具体的行為はその態様等からみて憲法二〇条三項にいう宗教的活動とまでいうことができないことは、多数意見の述べるとおりである。
 しかしながら、憲法が政教分離規定を設けるに至つたのは、大日本帝国憲法二八条による信教の自由の保障が「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」という制限を伴つていたこともあつて、同憲法下においては、国家神道に対し事実上国教的な地位が与えられ、ときとして、それに対する信仰が要請され、あるいは一部の宗教団体に対し厳しい迫害が加えられるなど種々の弊害を生じたことにかんがみ、新たに信教の自由を無条件に保障するとともに、さらにその保障を一層確実なものとしようとしたからにほかならない。元来、わが国においては、各種の宗教が多元的、重層的に発達、併存してきているのであつて、このような宗教事情の下で信教の自由を確実に実現するためには、単に信教の自由を無条件に保障するのみでは足りず、国家といかなる宗教との結びつきをも排除するため、政教分離規定を設ける必要性が大であつたのである。これらにかんがみると、憲法は、政教分離規定を設けるに当たり、国家と宗教との完全な分離を理想とし、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を確保しようとしたものと解すべきである(前掲最高裁昭和五二年七月一三日大法廷判決参照)。
 してみれば、右判決が判示するように、国家が、社会生活に規制を加え、あるいは教育、福祉、文化などに関する助成、援助等の諸施策を実施するに当たつて、宗教とのかかわり合いを生ずることを免れず、現実の国家制度として、国家と宗教との完全な分離を実現することは、実際上不可能に近いことはいうまでもないのであるが、国又はその機関としては、前記諸施策を実施するに当たつても、それが憲法二〇条三項にいう宗教的活動に該当するかどうかにかかわりなく、必要以上の宗教とのかかわり合いを慎むべきであり、また、公務員としても、その職務遂行に当たつては、必要以上の宗教とのかかわり合いを慎んで宗教的中立性を堅持するとともに、宗教的少数者等から国又はその機関としての宗教的活動に当たるのではないかと疑われるような言動や特定の宗教に配慮を加えたと受け取られかねない言動を自粛し、いやしくもその宗教的中立性に疑惑を招くことのないようにすべきである。
 本件合祀申請に至る過程において県隊友会に協力してした地連職員の行為は、その職務である遺族援護業務の一環としてされたものであつて、その意図には諒とすべきものがないではないが、たとえ間接的であるとはいえ宗教とかかわり合いをもつものであり、しかも専ら世俗的な目的をもつた習俗的宗教行事にかかる行為や社会的儀礼にかかる行為とも認め難いものであるから、より慎重であることが望ましかつたといわなければならない。
 また、県隊友会が本件合祀申請をしたのは昭和四七年三月三一日ころのことであるところ、被上告人が地連職員に対しAの合祀を拒否する態度を初めて明らかにしたのは同年四月五日のことであり、同月一〇日ころ地連職員は被上告人のこの意向を県隊友会のE会長に連絡しているのであるから、地連職員においてAの合祀が被上告人の意向に反するものであることを認識しながらAの合祀申請手続を進めることに協力したとの非難は、当を得ていない。しかしながら、原審の判示するところによれば、同月一九日県護国神社によりAを含む殉職自衛隊員二七名の合祀がされた後、地連のある職員は、同年七月六日被上告人が電話で抗議し合祀の取下げを要請したのに対し、Aは国のために死んだのであるから県護国神社に祀るのは当然であるなどの趣旨を述べて、翻意するよう説得し、また、同月二二日被上告人が電話で合祀の意図を質したのに対し、殉職自衛隊員は忠臣と同じくらいの資格があり、遺族の宗教にはかかわりなく現職自衛隊員の死生に誇りをもたせるために奮起して祀つたなどと答え、さらに、同月二七日被上告人の意を体して合祀の取下げを要望したL牧師に対しても、護国神社は公の宗教であり、日本人は家庭での宗教とは別に公には護国神社に祀られるのが当然である旨を答えた、というのである。これらはいずれも合祀がされて二か月余ないし三か月余を経た後の言動であつて、被上告人が本訴請求原因として主張する侵害行為とは直接関係のないものではあるが、宗教的中立性に疑惑を招きかねない言動であつて、行き過ぎの感を免れず、公務員としては自粛が求められるところといわなければならない。
 事案にかんがみ、一言意見を補足する次第である。
 裁判官島谷六郎、同佐藤哲郎の意見は、次のとおりである。
 我々は、多数意見の結論には賛成するが、その結論に至る説示には同調することができないので、我々の見解を明らかにしておくこととしたい。
 一 多数意見は、本来合祀は、合祀申請がなくとも、当該神社の自主的な判断に基づいて決められる事柄であつて、本件における合祀も、県護国神社が殉職自衛隊員を合祀する方針を決定した結果、実現したものであるとし、また本件合祀申請は県隊友会の単独名義でなされ、地連職員は県隊友会に事務的に協力したにすぎないから、本件合祀申請を地連職員と県隊友会の共同行為とし、地連職員も本件合祀申請をしたものと評価することはできないとする。
 しかしながら、原判決(その引用する第一審判決を含む。以下同じ。)には、県護国神社が殉職自衛隊員合祀の方針を決定するまでの経緯として、次のような判示がある。
 1 昭和三八年ころから本件合祀が企画された昭和四六年に至るまで、自衛隊の幹部職員が全国各地における合祀の祭典に公然と参画し(原判決には、各地における具体的事実が詳細に判示されている。)、あるいは合祀実現について積極的な言動をしてきた事実が認められ、陸上自衛隊第一三師団のM師団長、地連のG部長らにおいて、県隊友会の行う合祀申請につき物心両面の協力と支援を行う言動に出たことが十分に推認される。
 2 昭和四六年五月二二日地連のH総務課長は、九州各県(長崎県を除く。)の自衛隊地方連絡部の総務課長にあてて各地における合祀実施の状況等を照会する文書を発し、福岡県を除く各県では既に合祀等がなされているとの回答を得、右照会文書の控えと回答書とを地連のG部長と県隊友会のE会長の閲覧に供したのであるが、右照会文書には、「地連としての」「方策決定の資に供した」いので、「御教示を賜」りたい旨の記載があり、地連として、合祀実現の資料とするために照会し、回答を得たもので、G部長も右のような照会をすることを容認していた。
 3 県隊友会のE会長は、県護国神社のF宮司に対し右回答結果に基づいて九州各県における合祀実施状況を説明し、県護国神社においても合祀されたい旨を重ねて折衝し、その結果、昭和四六年秋に至つて同宮司から合祀につき基本的に了解を得た。
 原審の判示するこれらの経緯によれば、直接県護国神社のF宮司と折衝したのは、県隊友会のE会長であつたかもしれないが、E会長は地連の強力な支援の下に折衝を行つているのであり、地連の強力な推進と支援があつたからこそ、E会長は折衝を行つたし、F宮司においても、県隊友会の申出の背後には地連の物心両面にわたる強力な推進と支援があるとみたからこそ、県隊友会の申出を諒とし、殉職自衛隊員の合祀を基本的に了解したものとみるべきである。
 合祀するか否かは当該神社の自主的な判断に基づいて決められる事柄であるとする多数意見は、抽象的にはそのとおりであるとしても、本件事案に即して考察すれば、県護国神社が自らの発意に基づいて単独に合祀の方針を決定したとは到底考えることができず、また県護国神社が県隊友会の説得のみによつて合祀の方針を決定したとみることも適切でない。県護国神社の合祀の方針決定は、本件合祀申請に至る間における地連及び県隊友会の強力な働き掛けの結果であり、この両者の合祀実現に向けての強力な推進がなければ、当初難色を示していた県護国神社が合祀の方針を決定することはなかつたであろうと考えられるのである。原判決には、昭和四五年秋には県隊友会のE会長が同神社のF宮司から合祀実現可能との感触を得ていたとの判示もあるが、右はあくまでもE会長の得た感触にとどまり、この段階で県護国神社が合祀の方針を決定していたとの認定がされているわけではないのであつて、県護国神社は、その後の地連及び県隊友会の働き掛けによつて、昭和四六年秋に至りその合祀の方針を決定したものとみなければならない。
 また、多数意見は、本件合祀申請を地連職員と県隊友会の共同の行為と評価し得ない根拠として、本件合祀申請に至る過程において地連職員のした具体的行為がH総務課長のした前記2の照会などにとどまること及び地連ないしその職員が直接県護国神社に働き掛けた事実がないことをも挙示するが、右のような照会をしたことは、九州各県における合祀実施状況の詳細を知つて、山口県においても合祀を推進しようとする地連の意図の表れであつて、単なる事務連絡ないし県隊友会に対する事務的な協力と目すべきものではないし、また直接県護国神社に働き掛けた事実はないとしても、本件における一連の経過を全体として考察するときは、地連は県隊友会を通じて県護国神社に働き掛けたものと評価すべきであることは右に述べたとおりである。
 したがつて、本件合祀申請に至る一連の行為、すなわち殉職自衛隊員の合祀を求めての県護国神社に対する働き掛けを全体としてみれば、それは地連職員と県隊友会の共同の行為と評価すべきであつて、これを是認した原審の判断は正当であり、地連職員は県隊友会のする合祀申請に事務的に協力したにすぎないとし、本件合祀申請が県隊友会の単独名義でされていることから、共同の行為でないとする多数意見は、余りにも形式論にすぎるといわなければならない。
 二 次に、多数意見は、本件における地連職員の行為は憲法二〇条三項にいう宗教的活動とまではいうことはできないとする。
 しかしながら、本件において、県護国神社は自らの発意に基づいて単独に合祀の方針を決定したものではなく、地連職員及び県隊友会の働き掛けがあつたからこそ、その意を汲んで合祀の方針を決定したものであることは、一に説示したとおりである。そして、かつて大日本帝国憲法下においては、国家神道に対し事実上国教的な地位が与えられ、種々弊害を生じたことにかんがみ、国家といかなる宗教との結びつきをも断ち切るため、憲法二〇条三項の政教分離規定が設けられたことからすれば、右規定は国家と宗教との完全な分離を目指しているものといわなければならない。したがつて、いやしくも国の機関としては、ことさらに特定の宗教に接近し、これと結びつくような行為は許されないのであつて、本件における地連職員の行為は、殉職自衛隊員の県護国神社への合祀という宗教上の行為を目的としたものであつて、右条項の禁止する宗教的活動に当たるものといわなければならない。
 さらに進んでいえば、合祀それ自体は県護国神社のした行為ではあるが、原判決判示の合祀に至る経緯に照らせば、地連職員及び県隊友会も同神社と意を通じ、共同してこの合祀を実現したとみることができるのであつて、このように県護国神社及び県隊友会と共同して合祀を実現した地連職員の行為は、まさしく宗教的活動そのものであるといわなければならない。
 三 しかしながら、憲法二〇条三項の政教分離規定に違反する国又はその機関の宗教的活動も、それが私人の権利又は法的利益を侵害するに至らない限り、私人に対する関係では当然には違法と評価されるものでないことは、多数意見の説示するとおりであるし、本訴において被上告人が宗教上の人格権又は宗教上のプライバシーとして主張するところのものは、これを法的利益として認めることができないとする点についても、我々は多数意見と意見を同じくする。したがつて、我々は多数意見とは理由を異にするが、上告人の不法行為責任を認めた原判決を破棄し、第一審判決を取り消した上、被上告人の本訴請求を棄却すべきものとする結論には同調するものである。
 裁判官坂上壽夫の意見は、次のとおりである。
 私は、本件について、原判決を破棄し、第一審判決を取り消し、被上告人の請求を棄却すべきであるとする多数意見の結論には同調するが、その理由として説示するところに賛同し難い点があるので、一言しておきたい。
 一 多数意見は、死去した配偶者の追慕、慰霊等に関する場合をも含めて、原審が宗教上の人格権であるとする静謐な宗教的環境の下で信仰生活を送るべき利益なるものは、これを直ちに法的利益として認めることができない、と判示するが、私はこの点に賛同することができない。
 多数意見が右判示の理由とするところをみると、私人相互間において「自己の信仰生活の静謐を他者の宗教上の行為によつて害されたとし、」「かかる宗教上の感情を被侵害利益として、」「法的救済を求めることができるとするならば、かえつて相手方の信教の自由を妨げる結果となる」のであつて、「信教の自由の保障は、何人も自己の信仰と相容れない信仰をもつ者の信仰に基づく行為に対して、それが強制や不利益の付与を伴うことにより自己の信教の自由を妨害するものでない限り寛容であることを要請している」と説示している。私も、一般論としては、正にそのとおりであろうと考えるが、しかし、この一般論を本件のように県護国神社のしたAの合祀によりその妻である被上告人が不快の感情を抱き、心の静謐を害されたとする場合にまで及ぼすことはできないと考える。けだし、故人につきどのような宗教的方法で追慕、慰霊等を行つても、それは信教の自由として誰にでも保障されているというのは、既に当該故人の近親者が現存しない歴史上の人物等の場合にいえることなのであつて、その配偶者、子女又は父母などの近親者が遺族として現存している場合にも、これらの者の意思に反する宗教的方法で追慕、慰霊等を行うことを何人にも認め、遺族である近親者は、それが宗教にかかわるものである限り、いかに心の静謐を害されても、これに口を挟むことは許されず、これを坐視し、受忍しなければならないというのは、一般人の常識、社会通念に著しく反すると考えられるからである。
 してみれば、何人も、死去した近親者の追慕、慰霊等については、それが誰によつて行われる場合であつても、自己の意思に反しない宗教的方法によつてのみ行われることにより、その信仰に関する心の静謐を保持する法的利益を有すると解するのが相当であり、これは宗教上の人格権の一内容ということができる。多数意見の説示する「何人かをその信仰の対象とし、あるいは自己の信仰する宗教により何人かを追慕し、その魂の安らぎを求めるなどの宗教的行為をする自由は、誰にでも保障されている」ということは、故人の近親者の意思に反することのない場合においてのみいえることといわなければならない。
 したがつて、人は、死去した近親者に関して、他者により自己の意思に反する宗教的方法で追慕、慰霊等が行われ、その結果、自己の心の静謐が害された場合には、その宗教上の人格権に基づき、法的救済を求めることができるというべきである。このような見解に対しては、当該他者の信教の自由が侵害される結果となるとの反論があるであろうが、憲法の保障する信教の自由といえども、他の人格権を侵害する場合にまで保障されるものでないことはいうまでもなく、信教の自由には当然にこのような制約が内在しているというべきである。
 これを本件についてみるに、県護国神社によるAの合祀は、信教の自由により保障されているところとして同神社が自由になし得ることは、多数意見のいうとおりである。しかし、それがAの配偶者である被上告人の意思に反したものであり、被上告人がそれにより不快の感情をもち、その信仰に関する心の静謐を害された以上、被上告人は法的利益を侵害されたものといわなければならない。
 このような法的利益の存在を否定する多数意見には、賛同し難い。
 二 もつとも、近親者の間においても互いにその信仰を異にする場合があり得るのであり、このような場合は、近親者の間においても故人の追慕、慰霊等の宗教的方法に関する意見を異にするであろうから、ある近親者の意思に沿つて行われた追慕、慰霊等により、他の近親者の心の静謐が害されることがあり得よう。本件においても、原審の確定するところによれば、Aの父BがAの葬儀を仏式で挙行し、遺骨を仏壇に安置しておいたところ、被上告人は遺骨の一部を帯出した後、これをキリスト教会の納骨堂に納め、同教会の永眠者記念礼拝に出席しているというのであるから、Bは被上告人の信仰に基づく行為に対し不快の感情をもち、心の静謐を害されたであろうことは、想像に難くない。このような場合は、正に故人の近親者の間における人格権と人格権の衝突の場であり、多数意見のいう寛容が要請される場合であるといわなければならない。したがつて、ある近親者によつて行われ、又はその意思に沿つて行われた追慕、慰霊等の方法が他の近親者にとつてはその意思に反するものであつても、それに対しては寛容が要請されなければならず、その者の心の静謐を優先して保護すべき特段の事情のない限り、その人格権の侵害は、受忍すべき限度内のものとして、その違法性が否定されるべきである。
 付言すれば、何人かによつて行われた追慕、慰霊等の方法が故人の意思に沿つていた場合においても、同様に違法性が否定されるべきである。けだし、追慕、慰霊等の方法に関し最も尊重されるべきは、当該故人の意思であるといわなければならず、故人の近親者は、たとえそれにより心の静謐を害されたとしても、それを受忍すべきであるからである。例えば、故人が近親者とその信仰を異にしたため、生前何人かに対しその葬儀の方式などに関して言い残し、これを受けてその意思に沿つて葬儀が行われた場合などが、それである。
 そこで、本件のAの合祀をみると、Aの父Bは、Aが合祀されたことを非常に喜び、昭和四七年八月一四日に至つてではあるが、Aの弟妹と連名Aの合祀について被上告人の希望を容れないで欲しい旨の嘆願書を県隊友会あてに提出していることは、原審の認定しているところであり、この事実によれば、客観的には、Aの合祀はその追慕、慰霊の宗教的方法として近親者であるB等の意思には沿つていたものといわなければならない。もとより、Aの合祀は、B等の申請によつて行われたものでも、事前にB等の意思を聞いて行われたものでもないが、B等の意思が右のようであるとすると、故人の配偶者である被上告人と故人の父であるB等との関係において、特に被上告人の心の静謐を優先すべき事情が認められない本件においては、被上告人としては、たとえこの合祀が自己の意思に反するものであつて、心の静謐を害されたとしても、その侵害は、受忍すべき限度内のものとして、堪えるほかないといわなければならない。
 三 また、被上告人が侵害行為であると主張する本件合祀申請は、県隊友会の行為であつて、これを地連職員と県隊友会の共同の行為と評価することはできず、地連職員は県隊友会のした右申請に協力したものと評価すべきこと及び本件合祀申請に至る過程において県隊友会に協力してした地連職員の行為は、これを憲法二〇条三項にいう宗教的活動とまでいうことができないことは、多数意見の説示するとおりである。したがつて、被上告人の本訴請求はこの点からも理由がない。
 なお、Aの合祀後におけるある地連職員の言動には、行き過ぎの感を免れないものがあり、公務員として自粛が求められるところがあることについては、裁判官島益郎、同四ツ谷巖、同奧野久之の補足意見のとおりであり、この点について私も右補足意見に同調する。
 裁判官伊藤正己の反対意見は次のとおりである。
 私は、本件について、原判決を破棄し、第一審判決を取り消し、被上告人の請求を棄却すべきであるとする多数意見に賛成することができない。その理由は次のとおりである。
 一 本件は、国の行為によつて精神的苦痛を受けたとして被上告人の提起する不法行為に基づく損害賠償請求訴訟であり、のちにみるように信教の自由、政教分離の原則のごとき憲法上の論点を含むものではあるが、その争点は、不法行為責任の有無であり、結局、被侵害利益と侵害行為の態様との相関関係において考察する必要のある問題であるといわねばならない。
 そこで、まず問われるのは、原判決(その引用する第一審判決を含む。以下同じ。)の判示するところが不法行為法上の保護に値する利益と認められるものの侵害となるかどうかである。多数意見は、信教の自由の侵害となるものでない限り、他者により信仰生活の静謐を害されても法的利益を侵害したものとは認められないとしている。信教の自由は明白に法的な権利であり、それが不法行為法上の被侵害利益となりうることはいうまでもない。そして、信教の自由は、多数意見もいうように、国によつて信教を理由とする不利益な取扱いがされたり、宗教的行事への参列強制のように何らかの宗教上の強制が加えられたり、逆に宗教的活動への制止、妨害がなされたりする場合に、国による侵害があつたということができる。しかし、本件において、被上告人は、自己の信ずる宗教上の活動を阻害されたり、県護国神社への参拝を強制されたりしたことはないのであるから、信教の自由そのものへの侵害は認めることができないのである。そこで、問題は、信教の自由とかかわりをもつとはいえ、信教の自由そのものではない、原判示の「静謐な環境のもとで信仰生活を送る利益」が被侵害利益となりうるかどうかということになる。
 私は、現代社会において、他者から自己の欲しない刺激によつて心を乱されない利益、いわば心の静穏の利益もまた、不法行為法上、被侵害利益となりうるものと認めてよいと考える。この利益が宗教上の領域において認められるとき、これを宗教上の人格権あるいは宗教上のプライバシーということもできるが、それは呼称の問題である。これを憲法一三条によつて基礎づけることもできなくはない。私は、そのような呼称や憲法上の根拠はともかくとして、少なくとも、このような宗教上の心の静穏を不法行為法上の法的利益として認めうれば足りると考える。社会の発展とともに、不法行為法上の保護利益は拡大されてきたが、このような宗教上の心の静穏の要求もまた現在において、一つの法的利益たるを失わないといつてよい。本件においても、被上告人がキリスト教信仰によつて亡夫Aを宗教的に取り扱おうとしているのに、合祀の結果その意に反して神社神道の祭神として祀られ、鎮座祭への参拝を希望され、事実に反して被上告人の篤志により神楽料が奉納されたとして通知を受け、永代にわたつて命日祭を斎行されるというのは、まさに宗教上の心の静穏を乱されるものであり、法的利益の侵害があつたものといわねばならず、県護国神社への合祀は、被上告人に対し、せいぜい不快の感情を与えるものにとどまるもので法的な利益の侵害があつたとは認められないとするのは適切でない。
 私は、基本的人権、特に精神的自由にかかわる問題を考える場合に少数者の保護という視点に立つことが必要であり、特に司法の場においてそれが要求されると考えている。多数支配を前提とする民主制にあつても、基本的人権として多数の意思をもつても奪うことのできない利益を守ることが要請されるのはこのためである。思想や信条の領域において、多数者の賛同するものは特に憲法上の保障がなくても侵害されるおそれはないといつてもよく、その保障が意味をもつのは、多数者の嫌悪する少数者の思想や信条である。宗教の領域にあつては、わが国における宗教意識の雑居性から宗教的な無関心さが一般化しているだけに、宗教的な潔癖さの鋭い少数者を傷つけることが少なくない。「たとえ、少数者の潔癖感に基づく意見と見られるものがあつても、かれらの宗教や良心の自由に対する侵犯は多数決をもつてしても許されない」という藤林裁判官の意見(多数意見引用の昭和五二年七月一三日大法廷判決における追加反対意見)は傾聴すべきものと思われる。本件において、被上告人は宗教上の潔癖感が余りにも強いという批判もありうるかもしれない。しかし、そこに少数者にとつて守られるべき利益があるというべきであり、宗教的な心の静穏は少なくとも不法行為法上の保護を受ける利益であると認めてよいと思われる。このような心の静穏は、人格権の一つということができないわけではないが、まだ利益として十分強固なものとはいえず、信仰を理由に不利益を課したり、特定の宗教を強制したりすることによつて侵される信教の自由に比して、なお法的利益としての保護の程度が低いことは認めざるをえないであろう。しかし、そうであるからといつて、宗教的な心の静穏が不法行為法における法的利益に当たることを否定する根拠となりえないことはいうまでもない。
 二 次に、本件侵害行為のとらえ方が問題となる。被上告人の宗教的な心の静穏を害したのは、亡Aを県護国神社に合祀したことであるが、被上告人は、その前提となつた合祀申請をもつて侵害行為としている。もしこれが昭和四七年三月三一日ころ県隊友会が会長名義で行つた県護国神社への合祀申請行為のみを指すのであれば、多数意見のいうように、名義上も実質上も県隊友会の単独の行為と判断するのが相当かもしれない。しかし、本件において侵害行為の態様を考える場合に、具体的な合祀申請行為をそこに至る一連の行為と切り離してとらえるのは適当ではなく、全体の経過のうちに総合的にとらえることが必要であると思われる。単に右の三月三一日ころの合祀申請行為のみをとらえて本件における侵害行為とすることは、本件の実態を見失うものであり、被上告人が請求の原因にいう合祀申請も、このような継続的な過程における諸行為を指すものと解してよい。特に、人格権侵害による精神的損害の賠償を求める事件においては、このような侵害行為を全体としてとらえるのでなければならない。本件における宗教的な心の静穏が人格権として成熟したものといえるかどうかは別として、人格権の場合におけると同様に、一連の行為を侵害行為としてとらえて、その態様を考察すべきである。
 三 不法行為責任を認めるためには、加害行為と損害の発生との間に因果関係の存在が必要である。本件の場合、前記二に述べたように、本件合祀に至る一連の行為を全体としてとらえるならば、本件合祀申請行為と被上告人の法的利益の侵害との間に因果関係を認めることができる。多数意見は、合祀は神社の自主的な判断に基づいて決められる事柄であり、県隊友会のした本件合祀申請という行為は本件合祀の前提としての法的意味をもつものではないとし、また、本件合祀申請前に県護国神社においてすでに本件合祀を決めていたとしており、本件合祀申請と本件合祀との因果関係を否定するものであるかのようにみえる。昭和四七年三月三一日ころの合祀申請行為を切り離してみればそのように考えられるかもしれないが、この考え方の適当でないことは、すでに述べたとおりである。原審の確定するところによれば、県隊友会は、県護国神社に対し殉職自衛隊員を合祀することを要望したが、県護国神社の宮司の賛同を得られないまま経過し、昭和四五年秋に至り、F宮司から合祀実現が可能であるとの感触を得、その後も折衝を重ねた結果、昭和四六年秋に至つてF宮司から合祀について基本的な了解を得、更に同宮司との事務的な打合せを経て、昭和四七年三月三一日ころ本件合祀申請をし、これを受けた県護国神社が本件合祀をするに至つたものであり、本件合祀申請は、従前の折衝の結果宮司に翻意させたうえで、いわば最終的な仕上げとしてなされたものであるから、従前の折衝経過を無視してその意味を論ずることができないものというべきである。このように考えると、本件合祀申請と本件合祀とは密接不可分の関係にあるものというべきであり、合祀に至る全体の経過をみるとき、一連の働き掛けがあつて初めて合祀が実現したものであつて、本件合祀申請と本件合祀との間に因果関係の存在を認めて差し支えはないと考える。
 四 本件における合祀に至る一連の行為を、原判決のように地連職員と県隊友会の共同行為であるとみるか、多数意見のように地連職員の行為は単に事務的な協力にすぎず専ら県隊友会の単独の行為であるとみるかは、本件の事実関係をどう評価するかにかかわる本件の重要な点である。ここで合祀申請行為を他と切り離してみる態度をとるときには、その名義人である県隊友会の単独の行為であるとみるのが自然かもしれない。しかし、合祀に至る全体の過程をみるという私の立場からは、右のような見解をとることはできない。
 原審の確定したところによれば、(一) 昭和四六年三月に陸上自衛隊第一三師団のM師団長が開催した中国四国外郭団体懇談会で同師団長が合祀に賛成し、これを推進することを要望した、(二) 地連のG部長がこの会に出席しており、地連において遺族援護業務の一環として県隊友会による合祀申請を積極的に推進する態勢がとられた、(三) すでに、全国各地において、昭和三八年ころ以降自衛隊の幹部職員が合祀の祭典の実施に公然と参画し、あるいは合祀実現について積極的な言動をしてきた、(四) 地連のH総務課長は、県隊友会のE会長と合祀実現の方策を検討し、すでに殉職自衛隊員を護国神社に合祀していると聞いていた九州各県(長崎県を除く。)の自衛隊地方連絡部の総務課長にあてて、地連としての方策決定の資に供したい旨の記載のある合祀の状況などを照会する文書を発し、その回答を得て、これをE会長に閲覧させた、(五) 地連のJ事務官は、E会長の依頼を受けて、県護国神社のF宮司と打合せを重ねながら、自衛隊殉職者の奉斎実施準則を起案し、また、E会長の依頼により、募金趣意書の起案、配布及び寄せられた募金約八〇万円の保管をした、(六) 同事務官は、更にE会長から合祀申請の必要書類の取揃えを依頼され、遺族を通じて対象者の除籍謄本と殉職証明書を収集すべく、自衛隊員の募集業務を行う地連の出張所長及び地区班長に遺族から右書類を取り寄せることを依頼した、というのである。右のうち地連職員の行為は、それだけを見れば事務的な行為にすぎないとみられるかもしれないが、合祀申請に至る間において、地連職員が深くかかわつていたことを推知しうるものといえるのである(なお、地連職員が合祀後にとつた行動は、侵害行為のあつたのちのものであるが、合祀後は県隊友会よりもむしろ地連職員が主となつて被上告人と折衝し、その説得に当たつていたことをうかがわせるものであり、このことは合祀前における地連職員の関与の深さを推認させるものといつてよいと思われる。)。また、社団法人隊友会は、自衛隊諸業務に対する各種協力をその事業の一つとするものであり、県隊友会と地連との関係は極めて密接であつて、県隊友会の事務局は当時地連の建物内にあり、専任の事務員はおらず、県隊友会の業務の大半は地連職員が代行し、これは外郭協力団体への援助として公務とされ、上司の指示のもとでなされていたというのであるから、本件合祀申請の形式は県隊友会単独の行為であるとしても、そこに至る過程において、地連が物心ともに協力支援したものということができる。そして、地連職員は、合祀実現により自衛隊員の社会的地位の向上と士気の高揚を図る意図、目的のもとに前記のような行為をしたというのであるから、地連職員の意思も単なる事務的な協力の域をこえていたものというべきである。
 以上に述べたところからすると、本件合祀申請行為は、原判決のいうように、県隊友会と地連職員とが相謀り共同して行つたものとみるのが相当である。県隊友会は地連職員の関与する前に殉職自衛隊員の合祀実現を企図していたものであり、地連職員が後からこれに加わつたことになるが、このことは、本件合祀申請行為をもつて両者の共同の行為であるとすることの妨げになるものではない。なお、多数意見は、地連ないしその職員が直接に県護国神社に働き掛けたことがないことをあげ、共同行為であることを否定する一つの理由としているようにみえる。しかし、もし地連ないし地連職員が合祀について県護国神社に直接に働き掛けを行つた場合には、明らかに憲法に反すると断定される行為ともいうべきであり、当然に地連として自ら抑制すべきことである。このように憲法上禁止されているともいえる行為をしなかつたことをもつて、本件合祀申請における地連職員の行為が単に事務的なものにすぎなかつたと速断することは合理的とはいえないと考える。
 五 前記四において述べたように、本件合祀申請行為が県隊友会と地連職員との共同の行為であるとすると、問題は、このような地連職員の行為が、被上告人の被侵害利益との関係において違法なものといえるかどうかである。ここで、憲法二〇条三項の定める政教分離の原則からみて、地連職員の行為が憲法上どのように評価されるかが問題となるのである。そして、右の検討に当たつては、県隊友会の行為をも含めて考察する必要があることはいうまでもない。地連職員が県隊友会と相謀り共同して本件合祀申請行為をしたということは、地連職員が県隊友会の行為を自己の行為として利用する意図のもとに行動していたということにほかならず、県隊友会の行為は地連職員の行為と同視すべきものだからである。
 政教分離規定は、信教の自由を実質的に保障するためのものであるが、いわゆる制度的保障の規定であつて、直接私人の人権を保障するものではないから、これに反する国ないし国の機関の行為も、私人に対する関係で直ちに違法と評価されるものではない。しかし、地連職員の行為が政教分離規定に反し国が憲法上行うことのできないものであると判断されるときには、右の行為は憲法秩序に違反するものであるから侵害性の高度なものというべきであり、また、国には保護されるべき利益もないこととなるので、国が被害者に対して受忍を求めうる立場にないことは明らかである。右のことは、地連職員の行為の違法性の判断に当たつて考慮されるべき重要な要素であるといえる。したがつて、本件における地連職員の行為が政教分離の原則からみてどう考えられるか、すなわち、それが憲法によつて国に対して禁止される宗教的活動に当たるかどうかが検討されなければならないこととなる。
 当裁判所は、憲法二〇条三項にいう宗教的活動とは、およそ国やその機関の活動で宗教とのかかわり合いをもつすべての行為を指すものではなく、そのかかわり合いがわが国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度をこえるものに限られ、その行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうものと解している(前出昭和五二年七月一三日大法廷判決)。多数意見もこの見解を踏襲している。この考え方は、政教分離の原則により国に禁止される宗教的活動の判断基準を目的、効果、かかわり合いの程度の三つに求めたものであり、抽象的には正しいものといえよう。問題はその基準の適用であろう。憲法二〇条三項の規定がわが国における過去の経験を踏まえて国家と宗教との完全分離を理想としたものであることにかんがみると、この基準を国に禁止される宗教的活動の範囲を狭く限定するように適用することは、憲法の趣旨を没却するおそれがあり、適当とは思われない。しばしば指摘されるように、欧米においては、基本的人権は信教の自由の保障に発したといわれ、それがすべての人権の核心であるとされるのに反し、わが国では宗教意識の雑居性もあつて、国民一般の宗教への関心は高くなく、信教の自由への鋭敏な感覚に欠けるところがある。このことからは、政教分離をゆるめてよいということにはならず、むしろそれだけに政教分離の原則に忠実であることが要請されるといえるのである。また、宗教的活動に当たるかどうかの検討に当たつては、諸般の事情を考慮することは適当であるが、行為に対する一般人の宗教的評価、行為の一般人に与える効果、影響などを強調することは、前記判例のような地鎮祭という一種の習俗的行事の宗教性の判断の場合にはともかくとして、個人の宗教的利益の侵害が問題となる場合には、すでにみたような多数者による少数者の抑圧になる可能性があるので、一層の慎重さを求められるというべきものと思われる。
 右のような観点に立つて、本件における地連職員の行為が憲法二〇条三項にいう宗教的活動に当たるか否かを検討する。多数意見は、合祀は神社の自主的な判断に基づいて決められる事柄であり、県隊友会のした本件合祀申請という行為は合祀の前提としての法的意味をもつものではないことを前提とし、地連職員の具体的行為が宗教とかかわり合いをもつものであることは否定できないが、これをもつて憲法二〇条三項にいう宗教的活動に当たるということはできないとしている。しかし、私は、この見解に賛成することができない。
 第一に本件合祀申請行為の意味についてであるが、これが法的意味での申請に当たるものでないことはいうまでもない。しかし、このことから、本件合祀申請行為を単に殉職自衛隊員の氏名とその殉職の事実を県護国神社に対して明らかにし、合祀の希望を表明したにすぎないものと位置づけることは妥当でなく、前記二において述べたとおり、本件合祀申請に至るまでの県護国神社との交渉経過を一体のものとして考えると、本件合祀申請と本件合祀とは密接不可分の関係にあるものというべきであり、多数意見のように考えることは到底できないものといわなければならない。
 第二に本件合祀申請行為の目的であるが、その重要な目的として、自衛隊員の社会的地位の向上と士気の高揚という世俗的なものがあつたことは明らかであり、それを主たる目的とみれば、宗教的活動であることは希薄になるといえよう。しかし、同時に、合祀申請はまさに自衛隊の殉職者の霊を神道によつて祭神として祀ることを直接の目的とするものであり、地鎮祭等のように社会の一般的慣習に従つた儀礼とは性質を異にするものであつて、その目的が宗教的意義をもたないとするのは行為のもつ客観的な意味を不当に軽視するものである。
 第三にその効果であるが、本件合祀申請行為がキリスト教を含めた他の宗教に対する圧迫、干渉等の効果をもつものでないことは明らかである。問題は、それが神道、特に県護国神社に対する援助、助長、促進となるかどうかである。確かに、本件合祀申請行為は、特定宗教に対して資金援助をするものではないし、特定宗教の教義等の宣伝、布教、教育に当たるものでもなく、通常の意味での宗教に対する援助、助長、促進となるようなものとはいえない。しかし、他の宗教ではなく神道に従つて県護国神社に合祀してもらうよう申請する行為は、その効果において、神道を特別に扱つてこれに肩入れすることとなり、その援助、助長に当たるとみることができると考える。
 そして、地連職員は、以上のような性質を有する本件合祀申請を県隊友会と相謀り共同して行つたものであるから、そのかかわり合いは相当とされる限度をこえているものと認めるのが相当である。
 そうすると、地連職員の行為は憲法二〇条三項にいう宗教的活動に当たるものというべきである。右に述べたとおりであるとすると、被上告人の被侵害利益は法的保護に値する利益としていまだ十分強固なものとはいえないけれども、これを侵害した地連職員の行為は許容されない態様のものであり、また、被上告人が受忍すべきいわれはないというべきであるから、地連職員の行為は被上告人に対する関係でも違法なものといわなければならない。
 六 以上説示してきたとおり、私は多数意見とは異なり、上告人の不法行為責任を認めるのが相当であると考えるので、被上告人の本訴請求を認容すべきものとした原審の判断は是認することができる。論旨は採用することができず、本件上告はこれを棄却すべきものと考える。
     最高裁判所大法廷
         裁判長裁判官    矢   口   洪   一
            裁判官    伊   藤   正   己
            裁判官    牧       圭   次
            裁判官    安   岡   滿   彦
            裁判官    角   田   禮 次 郎
            裁判官    島   谷   六   郎
            裁判官       島   益   郎
            裁判官    藤   島       昭
            裁判官    大   内   恒   夫
            裁判官    香   川   保   一
            裁判官    坂   上   壽   夫
            裁判官    佐   藤   哲   郎
            裁判官    四 ツ 谷       巖
            裁判官    奧   野   久   之
 裁判官長島敦は、退官につき署名押印することができない。
         裁判長裁判官    矢   □   洪   一