判例
最判S63.7.15 第2小法廷判決 昭和57年(オ)第915号 損害賠償請求事件 判例時報1287号65頁
主 文
本件上告を棄却する。
上告費用は上告人の負担とする。
理 由
上告代理人中平健吉、同宮本康昭、同中川明、同仙谷由人、同秋田瑞枝、同河野敬、同喜田村洋一の上告理由について
一 上告理由第一点について
1 上告理由第一点のうち、原判決が憲法一九条によりその自由の保障される思想、信条を「具体的内容をもつた一定の考え方」として限定的に極めて狭く解し、また、原判決が思想、信条が行動として外部に現われた場合には同条による保障が及ばないとしたのは、いずれも同条の解釈を誤つたものとする点については、原判決を正解しない独自の見解であつて、前提を欠き、採用できない。
2 上告理由第一点のうち、原判決が学校教育法施行規則五四条の三に規定する調査書(以下「調査書」という。)として送付された本件調査書には、上告人の思想、信条にわたる事項又はそれと密接な関連を有する上告人の外部的行動を記載し、思想、信条を高等学校の入学者選抜の資料に供したことを違法でないとしたのは、教育基本法三条一項、憲法一九条に違反するものとする点について
原審の適法に認定したところによると、本件調査書の備考欄及び特記事項欄にはおおむね「校内において麹町中全共闘を名乗り、機関紙『砦』を発行した。学校文化祭の際、文化祭粉砕を叫んで他校生徒と共に校内に乱入し、ビラまきを行つた。大学生ML派の集会に参加している。学校側の指導説得をきかないで、ビラを配つたり、落書をした。」との記載が、欠席の主な理由欄には「風邪、発熱、集会又はデモに参加して疲労のため」という趣旨の記載がされていたというのであるが、右のいずれの記載も、上告人の思想、信条そのものを記載したものでないことは明らかであり、右の記載に係る外部的行為によつては上告人の思想、信条を了知し得るものではないし、また、上告人の思想、信条自体を高等学校の入学者選抜の資料に供したものとは到底解することができないから、所論違憲の主張は、その前提を欠き、採用できない。
なお、調査書は、学校教育法施行規則五九条一項の規定により学力検査の成績等と共に入学者の選抜の資料とされ、その選抜に基づいて高等学校の入学が許可されるものであることにかんがみれば、その選抜の資料の一とされる目的に適合するよう生徒の学力はもちろんその性格、行動に関しても、それを把握し得る客観的事実を公正に調査書に記載すべきであつて、本件調査書の備考欄等の記載も右の客観的事実を記載たものであることは、原判決の適法に確定したところであるから、所論の理由のないことは明らかである。
3 上告理由第一点のうち、調査書の制度が生徒の思想、信条に関する事項を評定の対象として調査書にその記載を許すものとすれば、調査書の制度自体が憲法一九条に違反するものとする点については、原判決の認定しない事実関係を前提とする仮定的主張であるから、到底採用することができない。
4 上告理由第一点のうち、原判決が、公立中学校の生徒には表現の自由の保障があるのに、その内在的制約の基準を明示せず、何の理由も付さずに、上告人が校内の秩序に害のある行動に及んだと認定したのは、理由不備の違法があるものとする点については、原判決は、適法詳細に認定した事実、すなわち、上告人が生徒会規則に違反し、再三にわたり学校当局の許可を得ないでビラ等を配付したこと、学校文化祭当日他校の生徒を含め一〇名の中学生と共にヘルメットをかぶり、覆面をして裏側通用門を乗り越え校内に立ち入つて、校舎屋上からビラをまき、シュプレヒコールをしながら校庭一周のデモ行進をしたこと、校舎壁面や教室窓枠、ロッカー等に落書をしたこと等の事実をもつて、「生徒会規則に違反し、校内の秩序に害のあるような行動に及んで来た場合」であると判断しているのであつて、何ら理由不備の点はなく、また表現の自由の内在的制約の基準を明示的に判示していないが、表現の自由といえども右のような行為を許容するものでないことを前提として判断していることは明らかであるから、所論は採用できない。
5 上告理由第一点のうち、本件調査書の備考欄等に記載された上告人の行動は、いずれも思想、信条又は表現の自由の保障された範囲の行動であるのに、これをマイナス評価の対象として本件調査書に記載したものであるところ、上告人の思想、信条又はこれにかかわる右の行動をマイナス評価の対象とすることを違法でないとした原判決の判断は、憲法一九条、二一条に違反するものとする点について
(一)憲法一九条違反の主張については、所論はその前提を欠き採用できないものであることは、前記一の2において判示したとおりである。
(二)憲法二一条違反の主張について
原判決の適法に認定したところによると、本件中学校においては、学校当局の許可を受けないで校内においてビラ等の文書を配付すること等を禁止する旨を規定した生徒会規則が存在し、本件調査書の備考欄等の記載事項中、上告人が麹町中全共闘を名乗つて機関紙「砦」を発行したこと、学校文化祭の際ビラまきを行つたこと、ビラを配付したり落書をしたことの行為がいずれも学校当局の許可なくしてされたものであることは、本件調査書に記載されたところから明らかである。
表現の自由といえども公共の福祉によつて制約を受けるものであるが(最高裁昭和五七年(行ツ)第一五六号同五九年一二月一二日大法廷判決・民集三八巻一二号一三〇八頁参照)、前記の上告人の行為は、原審の適法に確定したところによれば、いずれも中学校における学習とは全く関係のないものというのであり、かかるビラ等の文書の配付及び落書を自由とすることは、中学校における教育環境に悪影響を及ぼし、学習効果の減殺等学習効果をあげる上において放置できない弊害を発生させる相当の蓋然性があるものということができるのであるから、かかる弊害を未然に防止するため、右のような行為をしないよう指導説得することはもちろん、前記生徒会規則において生徒の校内における文書の配付を学校当局の許可にかからしめ、その許可のない文書の配付を禁止することは、必要かつ合理的な範囲の制約であつて、憲法二一条に違反するものでないことは、当裁判所昭和五二年(オ)第九二七号同五八年六月二二日大法廷判決(民集三七巻五号七九三頁)の趣旨に徴して明らかである。したがつて、仮に、義務教育課程にある中学生について一般人と同様の表現の自由があるものとしても、前記一の2において説示したとおり、調査書には入学者の選抜の資料の一とされる目的に適合するよう生徒の性格、行動に関しても、これを把握し得る客観的事実を公正に記載すべきものである以上、上告人の右生徒会規則に違反する前記行為及び大学生ML派の集会の参加行為をいずれも上告人の性格、行動を把握し得る客観的事実としてこれらを本件調査書に記載し、入学者選抜の資料に供したからといつて、上告人の表現の自由を侵し又は違法に制約するものとすることはできず、所論は採用できない。
二 上告理由第二点について
所論は、教師が教育関係において得た生徒の思想、信条、表現行為及び信仰に関する情報は、調査書に記載することによつて志望高等学校に開示することができないものであるにもかかわらず、この情報の本件調査書の記載を適法とした原判決は、憲法二六条、一三条に違反する旨を主張するのであるが、本件調査書の備考欄等の記載は、上告人の思想、信条そのものの記載でもなく、外部的行為の記載も上告人の思想、信条を了知させ、またそれを評価の対象とするものとはみられないのみならず、その記載に係る行為は、いずれも調査書に記載して入学者の選抜の資料として適法に記載し得るものであるから、所論違憲の主張は、その前提を欠き、採用できない。
また、所論の憲法二六条のほか一三条違反をも主張する趣旨が本件調査書の記載が教育上のプライバシーの権利を侵害するものであるとするならば、本件調査書の記載による情報の開示は、入学者選抜に関係する特定小範囲の人に対するものであつて、情報の公開には該当しないから、本件調査書の記載が情報の公開に該当するものとして憲法一三条違反をいう所論は、その前提を欠き、採用することができない。
三 上告理由第三点について
所論は、憲法二六条により生徒には合理的、かつ、公正な入学者選抜の手続を経て進学する権利が保障され、これを調査書についていえばそれが合理的、かつ、公正に作成提出される権利があるのであるから、調査書には入学者選抜に無関係な事項及び入学者選抜において考慮してはならない事項はすべて記載すべきではないにもかかわらず、本件調査書の備考欄等の記載事項は、入学者選抜の資料に供し得ない上告人の思想、信条、表現の自由に関する事項であつて、同条に違反するとする趣旨であるが、本件調査書の備考欄等の記載事項は、いずれも入学者選抜の資料に供し得るものであることは既に判示したとおりであるから、所論違憲の主張は、その前提を欠き、採用できない。
四 上告理由第四点について
所論の点に関する原審の判断は、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。所論引用の判例は、いずれも事案を異にし、本件に適切でない。論旨は、ひつきよう、原判決を正解しないか、又は独自の見解に基づいて原判決を非難するものにすぎず採用することができない。
五 上告理由第五点について
所論は、本件において、上告人が卒業生全員の卒業式に出席することによつて、卒業式の教育的意義を没却する事態が生ずるという蓋然性を予測することができなかつたことを前提として、憲法二六条、学校教育法四〇条、二八条三項違反を主張するものであるところ、原審の適法に確定した事実関係のもとにおいては、上告人を卒業生全員の卒業式に出席させれば卒業式に混乱を生じさせるおそれがあつたとする原審の判断は、正当として是認することができるのであつて、所論のいう蓋然性を予測することができたものというべきであるから、所論は、その前提を欠き、採用することができない。
六 上告理由第六点及び第七点について
本件記録に現われた本件訴訟の経過によれば、原判決に訴訟手続の違背その他所論の違法はない。論旨は、ひつきよう、原判決を正解しないでこれを論難するものであつて、採用することができない。
七 上告理由第八点について
1 上告理由第八点のうち、本件調査書の作成提出行為と上告人が各高等学校に不合格となつたこととの間には相当因果関係がないとした原判決には、経験則違背があるとする点については、原審の右判断は、本件調査書の作成提出行為に違法な点がないとする原審の判断が正当である限り、判決の結論に影響を及ぼさないものであるところ、本件調査書の作成提出行為に違法な点がないとする原審の判断が正当であることは前示のとおりであるから、論旨は、ひつきよう、原判決の結論に影響を及ぼさない点について原判決を非難するものであつて、採用することができない。
2 上告理由第八点のうち、右1以外の経験則違背、理由不備を主張する点について
所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、ひつきよう、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するものにすぎないか、原判決を正解せず、独自の見解に立つて原判決を非難するものにすぎず、採用することができない。
よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 香川保一 裁判官 牧圭次 裁判官 島谷六郎 裁判官 藤島昭 裁判官 奥野久之)
上告代理人中平健吉、同宮本康昭、同中川明、同仙谷由人、同秋田瑞枝、同河野敬、同喜田村洋一の上告理由
序 原判決の憲法違背の基本
一、子どもの権利の承認と確立
1 はじめにーー本件訴訟の基本問題
本件訴訟は、上告人が一審以来くりかえし主張してきたように、「子どもの学習する権利に対応し、その充足をはかりうる立場にある者」(学力テスト判決)として、子どもの教育にかんする責務を負う学校・教師が上告人に対して行なつた行為・措置が、真実子ども・生徒の学習する権利に対応し、これを充足するものであつたかどうかを問うものである。
本件において、麹町中学校及び同校教師は、上告人の学習権を充足すべき責務を何ら果そうとせず、むしろ積極的にこれを侵害したのである。本訴訟はこの学校・教師と子どもとの間の不幸な関係を再び繰り返さないという願いをこめて提起されたのであつた。
一審判決は、学校・教師が上告人に対し行なつた行為・措置は(憲法二六条の背後に存する)「国民各自が、一個の人間として、また、一市民として、成長、発達し、自己の人格を完成、実現するために必要な学習をする固有の権利」(学力テス判決)として上告人が有する学習権を充足すべき責務を果しておらずこれを積極的に侵害した、と判示したものである。
ところが、原判決は、学校・教師が上告人に対し行なつた行為・措置は「教育を施す側として「中学校教育の管理権限を付与されている校長の教育的裁量に委ねられた」ものであつて、その責務を果していないとはいえない、と判示している。(ただ、原判決も学校教師の行なつた上告人に対する暴力による拘束は「学校側が教育者として期待される平和的説得的な態度に欠けるものがあつた」として、その責務が十分に果されなかつたことを認めている。)
以下に項を分つて詳述するとおり、一審判決は最高裁判所昭和五一年五月二一日大法廷判決(昭和四三年(あ)第一六一四号事件、刑集三〇巻五号六一五頁以下。本理由書では学力テスト判決として略称して引用する)の判旨にそつて展開されており、又、近時の憲法、教育法理論の到達点を十分にふまえているが、原判決は右最高裁の学力テスト判決を無視し、更に明白にこれに反しているばかりか、今日の憲法・教育法の立場からみても疑義の多い判決であつて、破棄を免れないものと確信する。
2 子どもの権利の承認と確立に向けての歩み
本件訴訟は、「子どもの学習する権利に対応し、その充足をはかりうる立場にある者」(学力テスト判決)としての学校・教師の責務のあり方を問うものであるが、それはとりも直さず、かかる教育過程における子ども・生徒の権利保障のあり方を問うものである。
原判決が破棄されなければならないゆえんを明らかにするためには、まず、子どもの権利の憲法による保障の意義を、歴史的経緯にまでさかのぼり、又国際的視野のなかでみきわめてこれを正しく把握する必要がある。この点の把握・理解こそ本件訴訟の基本問題であるとともに、一審判決と原判決の判断を究極において分つものであつたと思料するからである。
(一)思想としての子どもの権利の承認
近代の人権思想の出発点は人間の人間としての自然的権利の承認であつた。それは人間一般の人格性とその尊厳の思想を核とするものであつた。
近代の人権宣言は、このような人間一般としての人権は子どももまた人格的存在として享有するとして、その人権概念の中に含めていた。基本的人権は人間であることにもとづいて成立する権利であるがゆえに、子どもであつても人間としての権利を享有するのは当然であるとみなされていたからである。
しかし、子どもの権利の承認にとつて重要なことは、人間一般としての人権の承認と同時に、大人とはちがつた固有な存在価値としての自覚とそれにもとづく相対的に独自な権利の保障である。そのような「子どもの発見」とその権利の承認において、ルソーのはたした役割が大きかつたことは今日広く認められているところである。
ルソーはその著『エミール』(一七六二年)の序文に次のように書いている。「人は子どもというものを知らない。子どもについてまちがつた観念をもつているので、議論を進めれば進めるほど迷路にはいりこむ。このうえなく賢明な人々でさえ、大人が知らなければならないことに熱中して、子どもにはなにが学べるかを考えない。かれらは子どものうちに大人をもとめ、大人になるまえに子どもがどういうものであるかを考えない。」(今野一雄訳《岩波文庫》上巻一八頁)
このように警告したあとルソーは「まずなによりもあなたがたの生徒をもつとよく研究することだ」(同上、一八頁)と子ども・生徒に着眼することの必要性を説いている。
ルソーによつて明らかにされた「子どもの自然」への着眼と、その「自然の歩み」にそつた、「人間をつくる技術」としての教育の提唱は、おとなとは違つた存在としての「子どもの発見」であると同時に、子どもの発達をうながす「教育の発見」でもあつた。「わたしたちは生きはじめると同時に学びはじめる。わたしたちの教育はわたしたちとともにはじまる」(上巻、三二頁)。ここでは生きること、学ぶこと、教育することが一つのものとしてとらえられている。さらに、ルソーの考え方に一貫しているのは、人生のあらゆる時代、あらゆる状態には、それぞれ固有の完成と成熟とがある、とする点である。これは、次のようなくだりに端的に表われている。
「人間を人間として考え、子どもを子どもとして考えなければならない」(上巻、一〇三頁)のであり、
「子どもは獣であつても成人した人間であつてもならない。子どもは子どもでなければならない」(上巻、一一三頁)。
人生のそれぞれの時期、それぞれの状態にはそれ相応の完成というものがあり、それに固有の成熟というものがある。わたしたちはしばしばできあがつた人間ということについて聞く。だが、できあがつた子どもというものを考えてみよう」(上巻、二七九頁。傍点ー代理人)ではないか、たとえば「十才ないし十二才の子ども、健康でたくましい、その年令において十分に完成している子どもの姿を心に描いてみる」(上巻、二七三頁)ことができるであろう。このように、ルソーにあつては、子どもは、それ自体独立したものとして、それ自身の完成を自らのうちに蔵するものとしてとらえられており、従つて、かけがえのないそれ自体としての価値を持つ「現実感」つまり人間そのものとしてとらえられているのである。
これは、子どもをその独自性においてよりもおとなを規準としてとらえ、未完成のおとなにすぎない、とする見方と対立し、これを否定するものである。
子どもの固有性・独自性を大事にし、子どもを子どもとして完成するというルソーの思想こそ、近代人権思想における子どもを人権の主体とみる立場の出発点をなすものである この子どもの権利は、コンドルセによつて古い世代をのりこえる「新しい世代の権利」として深められ、教育は子どもの人権の一つであり、同時に、すべてのひとが、もろもろの権利を行使し、その権利の平等を現実化するための手段と考えられた。
このようにして、子どもの権利の思想は子どもの成長・発達の権利と、その実質を保障する学習の権利を中核としながら、近代の人権思想の中に根づいていつた。
(二)子どもの権利の発展と社会化
近代の人権思想が含む子どもの権利にかんする理念や主張が実際的・指導的役割を果すのは、一八世紀から一九世紀にかけて、農村共同体の分解と都市化の過程が一層進行し、それまで共同体内に未分化なまま包摂されていた子どもの問題が、いわゆる「児童問題」として顕在化し、子どもの要求が社会的・一般的性格を濃くしてからのことである。
子どもを家父長や共同体の所有物・附属物とみるのではなく、一人の人間としてその人格の独立性を認めることは、とりも直さず子どもを人権の主体として認めることである。
このようなものとして子どもの権利は、国家や社会による児童保護施策や公教育の実施拡大などを要求し、次第に制度上の権利として結実しはじめる。とりわけ「権利としての教育」は子どもの「発達と学習」を保障するものとして子どもの権利の中核をなし、労働や生存の権利と結びついて発展せられた。子どもは慈恵的な保護の対象・客体としてではなく、成長し発達する権利を有する主体として基本的人権を享有するとの認識が次第に普遍化するに至つたのである。
(三)子どもの権利の国際的保障
子どもの権利は、第一次大戦後の一九二四年「児童の権利に関するジュネーヴ宣言」が採択されたことを起点として、国際化の時代に入つた。
大規模な世界戦争のもたらした悲惨な結果は子どもにおいて一層深刻であつた。帝国主義諸国において軍事的価値を優先した他民族抑圧を思想的に準備する教育がおし進められたことによつて、子どもたちの能力・人格の発達は制限・歪曲され、一方植民地の子どもたちは同化政策によつて発達の基盤である民族の生活・文化そのものを破壊されていた。このような全世界的規模での子どもの権利の危機的状況が右の「ジュネーヴ宣言」に反映され、人類が子どもに対して「その最善の努力を尽すべき義務」を負うことがうたわれていた。
第二次大戦後の子どもの権利の国際化は、大戦中の関係団体による子どもの権利を守る運動(たとえば、国際新教育連盟の主導による児童憲章《Children’s Charter》の制定《一九四二年》を基盤としつつ展開した。
一九四八年の世界人権宣言は二六条でとくに「何人も教育を受ける権利を有する」「教育は、人格の完全な発展と人格及び基本的自由の尊重の強化とを目的としなければならない」としている。
この二六条の規定を解説して、ジャン・ピアジェは次のように述べている。「教育をうけるという人権を肯定することは……各人に読み書き算の取得を保証するよりもはるかに重い責任を負わすことである。それは本当の意味ですべての子どもに彼らの精神的機能の全面的発達と、それらの機能を現在の社会生活に適応するまで行使することに対応する知識ならびに道徳的価値の獲得とを保証してやることである。したがつて、それはとりわけ……個人のなかにかくされていて、社会が堀りおこさなくてはならない可能性の重要な部分を失わせたり他の可能性を窒息させたりしないで、それらの可能性を何一つ破壊もせずだいなしにもしないという義務をひきうけることである」(ワロン・ピアジェ教育論、竹内良知訳《明治図書》一五七頁。)
ここには、教育を受ける権利の本質がいかなるものであるかが実に鮮やかに描き出されている。
世界人権宣言の精神をさらに子どもにそくして具体化したのが一九五九年の「児童権利宣言」である。前文と本文全十条からなるこの宣言は、子どもの総合的な権利を発達の方向にそつて国際的に承認したものである。すなわち、その第一条は、子どもの権利の普遍性・無差別性を確認し、教育への権利を規定した七条二項は「児童の教育および指導について責任を有する者は、児童の最善の利益をその指導の原則としなければならない」と規定して、“子どもの最善の利益”(the best interest of the child)を強調している。さらに、国際的人権規約は、一九六六年採択され、一九七六年に発効したが(わが国も一九七九年に批准)、「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」(A規約)の一三条は、右にみた世界人権宣言二六条の教育に関する権利をさらに具体化し、「教育が人格の完成及び人格の尊厳についての意識の十分な発達を指向し並びに人権と基本的自由の尊重を強化」するものでなければならないとして、教育における人権の尊重を強調し、「市民的及び政治的権利に関する国際規約」(B規約)の二四条が規定する児童の権利の確認と保障とあいならんで、子どもを権利の主体としたうえでその権利の具現化を図つている。
スウェーデンの婦人解放運動の指導者エレン・ケーは「二〇世紀は子どもの世紀」だと予言したが、たしかに子どもを権利の主体としてとらえる見方は決定的となり、国際的承認を経て定着しつつある。
アンリ・ワロンの次のような言葉は、この意味でも味わい深い。
「……疑いもなく、子どもの権利はずつと昔、すでにジャン・ジャック・ルソーによつて……主張されていた。しかし、大人は子どもを利用したのではないかと思われます。大人はまず自己の権利を認めさせましたが、ついで、それを認めさせておきながら、子どもの権利を承認するにはかなりの年月が、いつてみれば一五〇年の年月がかかりました」(ワロン・ピアジェ教育論、竹内良知訳《明治図書》一二頁)。
このようにして、現代世界にあつては、子どもは、どの子どもも人間の一人として人権を享有する権利主体として、しかも孤立的にではなく、国際的なひろがりの中で社会的存在としてとらえられ、「子どもを中心とする法的関係の網の目なかでは、客体としてではなく、つねに主体として扱われなければならない」(「子どもの権利」ジャン・シヤザル著、清水・霧生訳《クセジュ文庫》二〇頁)ものとなつたのである。
(四)日本国憲法と子どもの権利の承認
わが国では、長い間子どもの人権を十分に保障していこうとする国民の意識はきわめて稀薄であつた。子どもは、せいぜい女性や老人とともに保護され、慈恵を施される対象としてとらえられていたにすぎない。明治憲法下においても、子どもは強力な家父長権、家族制度のなかに組み込まれ、親の私的扶養の対象として非人格的な取扱いを受けてきた。教育もまた「就学セシムル義務ハ児童ニ対シテ負フニ非ズシテ国家ニ対シテ負フ」(小林歌吉「教育行政法」)ものとされ、子どもの権利に対応する責務ではなく、天皇の「赤子たる臣民としての国家への服従の義務としてとらえられており、もとより子どもの人格を認め、子どもを権利の主体として承認しようとする視点ははじめから欠落していた。
しかし、戦後日本国憲法は、すべての国民に個人の尊厳(一三条)と「法の下の平等」を保障し(一四条)、その一一条で「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられないこの憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる」(傍点ー代理人)と規定している。
ここにいう「現在及び将来の国民」が子どもを含むことは明らかである。子どもも憲法の保障する人権を享有する主体であることを認め、これを基本原則として高らかに宣言したのである。
基本的人権は人間であることにもとづいて成立する権利であるがゆえに、子どもであつても人間としての権利を享有するのは当然であろう。子どもは子どもであるがゆえに基本的人権の享有をさまたげられるべき理由は何らなく、逆に子どもであるがゆえにそれにふさわしい方法で基本的人権を享受しうるよう配慮される必要がある。子どもの基本的人権の享有に対する配慮とは大人と同様に基本的人権を子どもにも保障する手だてである。
そのようなものとして、憲法二六条が保障する「教育を受ける権利」は一方で既に詳述した、子どもの権利の承認と発展さらにはその国際化という歴史的経緯と国際的背景をふまえ、他方で、戦前日本の子どもがおかれていた慈恵的存在への根本的反省から、子どもの成長・発達を保障する学習権として位置づけられ、子どもの権利の中核をなしているのである。
学力テスト判決において最高裁判所も「個人の基本的自由を認め、その人格の独立を国政上尊重すべきものとしている憲法の下においては、子どもが自由かつ独立の人格として成長すること……」と判示するなかで、子どもを「自由かつ独立の人格」の主体として承認することを明らかにしたのである。
また、子どもを「自由かつ独立の人格」の主体と認めたからこそ、同判決もいうように「子どもの教育は、教育を施す者の支配的権能ではなく、何よりもまず、子どもの学習をする権利に対応」しなければならないものとなつたのである。
3 子どもの権利とその行使
子どもも憲法の保障する基本的人権を享有しうることは、本来「人権の主体としての人間たるの資格が、その年令に無関係である」(宮沢俊義、憲法2《新版》二四六頁)ことからすれば理の当然であろう。
むろん、ひとしく人権といつてもその種類・性質により、また、同じ人権についても子どもの成長の度合などにより、子どもが実際にこれを享受し、行使する態様はさまざまであろう。
子どもに権利があるとしても、子どもがその権利を自分で行使しないことが普通であることはいなめない。現代にあつても、子どもは多くの場合自分の権利を普通には両親、ときには、両親の代理人もしくは法人を通して行使している。
しかし、その場合であつても、正確には、親を通して、親を介して、子ども自身が権利を行使しているとみるべきであつて、親の権利が行使されているわけではない。(むろん親もまた親として子どもに対して権利を有しており、これを行使することが許される場合があるが、厳密には両者は分けて考えられ、論じられるべきであろう。)
また、本件で問題となつている思想・信条の自由や表現の自由の外、信教の自由などのような精神的自由についてみても、そのような人間の精神作用が、人間の成長発達のどの段階で生じ、どのようにしてそれらが形成され、どこで成熟するかは、発達心理学などの隣接諸科学の成果をもとりいれながら慎重にみきわめられなければならないであろう。しかし、そのことと子どもが精神的自由を人権として享有しうることとは本来別問題である ちなみに、ドイツでは、ワイマール憲法一四九条で「児童が宗教教育、教会の祭典および行事に参加するか否かは彼の宗教教育について決定権を有する者の意思表示に委ねられる」と定めていたが、これに基づいて一九二一年に制定された「子どもの宗教教育に関する法律」(Gesetz uber die religiose Kindererziehung)は、親に対して宗教教育参加の決定権を認めたあと、五条において、
「満一五才に達した子どもは、いかなる信仰をするか、決定する権利をもつ。子どもは満一二才に達したとき、従来と異なる信仰をもつ場合はその意に反して教育されることはない」と定めて、一定の年令に達した子どもに決定権を認めている。
さらに付言すれば、子どもの精神的自由への侵害が同時に親の精神的自由への侵害であることがありえ、また現実にも多くの場合親の精神的自由の侵害として問題とされ救済が図られたことは事実であるが(アメリカにみられる学校教育における「信教の自由」をめぐる夥しい判例はその好個の例証である)、このことと子どもが本来精神的自由について人権を享有しうることとは別の次元に属することである。
ちなみに、アメリカ連邦最高裁においても、一九六七年のゴールト判決(InreGault.387.U.S.I)以後子どもの権利保護の観点が前面に押し出されて、親の教育権を重視する伝統的法理への再検討がなされるに至つた。一九七二年のヨーダー判決(Wisconsin V.Yoder,406.U.S.205)におけるダグラス判事の次のような意見はそれを端的に表明したものである。
「我々は従来親と州の間の紛争にあたつて、子どもの立場への配慮を殆どしてきていない……しかし最近の実例は、子ども自身が憲法上保護さるべき利益を持つということをはつきりと認めてきている。すなわち、子どもたちは権利章典の意味における「人」(person)である。」「こうした教育上の重要かつ枢要な事柄に関しては、子どもは意見を聞かれる権利を持つべきであると考える。……子どもは、それが自己の好むコースなのかあるいはそれに反抗するかを決定できるのである。……権利章典と自分の運命の主人公たるべき生徒の権利に十分な意味を与えようとするかぎり、基本的に重要なのは親の判断ではなく生徒の判断である。」
以上のとおり、子どもも基本的人権を享有しており、子どもは権利の主体であつて、権利の単なる客体ではない、ということを強調することは、しかし、直ちに「親の権威に疑いをさしはさむことではなく、家庭や社会に対する青少年の義務を無視することでもない
(ジャン・シヤザル前掲書、一四頁)ことに注意しなければならない。われわれは、ただ最高裁判所が本件を正しく審理するにあたり、子どもは権利の主体であつて客体ではないという自明の理をふまえるべきことを主張しているにすぎないのである。
われわれのこのようなねがいは、しばしば引用したジャン・シヤザルの次のような言葉に端的にこめられている。
「法廷での弁論においても、行政訴訟においても、子どもは主体であつて客体ではないと宣言することは、子どもの個人としての資格にもとづく諸権利を確認することであり、子どもを尊重し、保護しようということであり、同時に、子どもの生活のもつ重みをそこなうまい、子どもを空虚な観念に還元してしまうまいということなのである」(前掲書、二〇頁)。
二、学校における子ども・生徒の基本的自由の尊重
右に明らかにした子どもの基本的人権・自由は、「子どもの学習する権利に対応し、その充足をはかる」ために設けられた学校とそこでの教育過程においても、十分に尊重されなければならないことは理の当然である。
1 学習権の現実的保障としての「学校」
今日、学校教育制度は憲法二六条の「教育を受ける権利」の現実的保障として法制化され、整備されたものととられている。すなわち、学校は、子どもの学習権を保障するための社会的なしくみとして設けられたものであつて、子どもの学習を通して子どもの内発的価値創造のいとなみが行なわれる組織体である。言い換えれば、「本来人間の内面的価値に関する文化的な営み」としての教育が、社会のさまざまな利益要求との緊張を保ちながら、「教師と子どもとの間の直接の人格的接触を通じ、子どもの個性に応じて弾力的に行われ」(学力テスト判決)るべく組織されたものが学校である。
2 学校における生徒の基本的自由の意義とその保障
後に(第三点二、)詳しく展開するように、子どもの学習権を保障するとは、ただ単に子どもに学校における学習の機会を保障するといつた形式的な意味にとどまるのではなくて、子どもに固有の人格の尊厳、自由を認めて、その人間的成長発達を促す社会的環境を整えるということをも含むものである。
前述した「世界人権宣言」二六条の「教育を受ける権利」が「人格の完全な発展と人権及び基本的自由の尊重の強化を目的とし」ていることや、「国際人権規約」(A規約)一三条が「教育が人格の完成及び人格の尊厳についての意識の十分な発達を指向し並びに人権及び基本的自由の尊重を強化すべき」としているのも、右の理を明らかにしたものである。
そもそも、教育が人格の完成を目的とするものであり、子どもの能力の全面的発達をめざすためのものである以上、子どもの基本的自由とりわけ精神的自由は教育にあたつての必須の前提をなすものである。けだし、子どもの能力の全面的発達を図りながら、他方でその精神的自由にどのようなかたちであれ、足枷をし、これを制限するようでは、およそその全面的発達を望むべくもないからである。むしろ、子どもの能力の全面的発達が「まちがい」や「ゆきどまり」を不可避的に伴いながら行なわれるものである以上、大人の場合以上にその精神的自由は保障されなければならないともいえるのである。
さらに、思想・信条の自由及び表現の自由を認め、信教の自由を保障した憲法の下で、公立学校が生徒に対しこれらの点を理由に教育上の不利益な措置をすることは、結局被対象生徒のこれらの自由を侵すことになり、許されないのである。このことは、これらの思想・信条や表現並びに信教の内容・程度によつて本来その理を異にするものではない。けだし、もしこれらの内容・程度によつて取扱いが異なるものとすれば、結局これらの点について公的教育機関が審査し、価値判断を加えたことを意味するからである。
教育基本法が第一条で「教育は人格の完成をめざし……て行われなければならない」として教育の目的を明らかにしたあと、第八条二項で「法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治活動をしてはならない」としたのは、学校における子どもの思想・信条の自由及び表現の自由をうらから保障しようとしたものであり、第九条二項で「国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない」というのも、学校における子どもの信教の自由及び思想・信条の自由の保障につかえるためであることは明らかである。
このように、学校における基本的人権の尊重は、子どもの学習権保障の前提条件をなすものである。学校において子どもの基本的人権が十分に尊重され、保障される条件が整えられてはじめて、子どもは十全に学習することができるものとなるのである。
今日、子どもは学習権の主体であつて、「子どもの教育は、教育を施す者の支配的権能ではなく」(学力テスト判決)、したがつて、学校は子どもにただ受動的に特定の価値の受容を求めるところではなく、また子どももそれらの受け皿ではないし、器でもない。すなわち、「本来人間の内面的価値に関する文化的な営み」としての教育「内容に対する……国家的介入についてはできるだけ抑制的であることが要請されるし、殊に個人の基本的自由を認め、その人格の独立を国政上尊重すべきものとしている憲法の下においては子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入、例えば、誤つた知識や一方的な観念を子どもに植えつけるような内容の教育を施すことを強制するようなことは、憲法二六条、一三条の規定上からも許されない」(学力テスト判決)ものとなつていることが看過されてはならない。
公権力によつて侵害することが許されない「子どもの成長途上における人格的利益」とはとりも直さず子どもの基本的自由であるが、それは、教育ーー学習過程に対する公権力の支配・侵害を排除するだけではなく、教師と子どもとの間の教育ーー学習過程そのものが「子どもの人格的利益」を基軸として展開されなければならないことをも要請しているとみるべきである。
したがつて、子どもが教育ーー学習過程を通して内発的に価値創造をするべき組織体としての学校は、社会のさまざまな利益要求との緊張をはらみながら、何よりも価値創造をしてゆくにふさわしい自由な雰囲気の場でなければならず、したがつて、子どもの人間としての人格の尊厳の尊重・自由の保障は学校における教育ーー学習過程の必須の前提となるというべきである。
3 西ドイツとアメリカにおける生徒の基本的自由
学校において子どもの基本的人権が保障されなければならないことは、今日諸外国においても明らかにされている。
たとえば、西ドイツでは、長い間学校が「国の監督」の下におかれており、そこでは特別権力関係論が支配的であつたため、「生徒の法的地位の完全な無視」(ハンス・ヘッケル)がみられた。しかし、一九五〇年代後半にヘルムード・ベッカー(Hellmut
Becker)がこれらを「管理された学校」という視点から批判して以来伝統的思考への反省が行なわれ、ハンス・ヘッケル(Hans Heckel)は、「教師の教育上の自由」の保障と並んで「生徒の権利の発見とその保障」を明らかにした。
「行政裁判所は以前はもつぱらいわゆる外的学校法の問題と関わつていたのに対し、新しい行政裁判所判例は、はじめて学校における生徒の法的人格、より正確には、独立の法人格としての学校における生徒を発見し、その法的地位を明らかにした。ここに、学校法の発展にとつての一九四五年以来の行政裁判の決定的な意義がある。」(H.Heckel
Die Bedeutung der Verwaltungsrechtsprechung fur die Entwicklung des deutschen Schulrechts,1963.S.443)
このようにして、子どもは生徒としても基本権の完全な享有主体であることが明らかにされたのである。
のみならず、ボン基本法二条一項の「人格の自由な発展」の権利は、学校における子ども・生徒にもあてはまるものとされ、「子どもの学校における自己発展の権利」として深められ、したがつて、「教育においては、子どもの諸自由を尊重するのでなければならず原則として諸自由の侵害ないし制限に至る教育は許されない」とされるに至つたのである(Heymann=Stein,Das Recht auf Bildung,S.209)。
アメリカにおいても、生徒が学校において憲法上の自由を保障されなければならないとの見解が今日支配的となつている。
校長が、ベトナムにおけるアメリカの戦争活動に抗議するために黒腕章を着用して登校しようとした三名の生徒(一三才、一五才、一六才)を登校禁止処分にしたのに対し、処分の差止と名目的損害賠償を求めた、いわゆるティンカー判決(Tinker v.Des Moines Independent Community School District 393.U.S.503.1969)において、アメリカ連邦最高裁のフォータス判事はその法廷意見において次のように述べて右の点を明らかにしている。
「修正一条の権利は、学校という特別の環境に照らして適用されても、教師及び生徒に及びうる。生徒なり教師が、言論・表現の自由という憲法上の権利を、校門のところでうち捨ててくると主張することはできない。このことは、当裁判所が、ほぼ五〇年にわたつて明確に判示してきたところである。」「われわれの体制では、州が運営する学校は、全体主義の飛び地であつてはならない。学校当局者は、生徒に対する絶対的権限を有していない。われわれの憲法の下では、生徒は、学校外におけると同様、学校内においても「人」(Person)である。……われわれの体制では、生徒は閉ざされた中で、州が伝えたいと望むものだけを受け取る存在とみなされてはならない。当局が同意した意見の表現にだけ閉じ込められてはならない。憲法上有効な、言論の規制理由が特別に立証されるのでない限り、生徒は、自らの見解を表明する自由を有する」「生徒間の意見交換は、在学過程における不可避の部分というだけでなく、教育過程における重要な一部分でもある。」
したがつて、学校が生徒の基本的自由に対して規制権限を行使することが許されるのは生徒の行動が「学校運営における適正な規律のために必要な要件と著しくかつ実質的に衝突する」事実を学校当局が立証しえた場合に限られるのである。
ティンカー判決が明らかにした学校における生徒の基本的自由の尊重と学校当局の規制権限に対する「著しくかつ実質的な衝突」という制約規準は、その後の学生・生徒の権限を争う事件においても多く援用されるところとなり、現在もなお指導的な役割をはたしているのである。
このように、西ドイツやアメリカにあつても、かつては学校の生徒に対する規制権限は包括的なものとされ、裁判所は学校の自律性を尊重して学校の規制権限の行使に対して法的判断をすることに消極的であつたが、学校において生徒の基本的自由が尊重されなければならないとの認識が高まるにつれ再検討を迫られることになり、もはや学校の規制権限の広汎な裁量は認められなくなつているのである。
すでに、前記エレン・ケイは、学校がある理想を代表する存在になると、そこに属する個人ーー生徒が圧迫されることになるのを憂慮し、次のように警告を発していた。
「『学校』が『家庭』や『国家』と同様に、それを構成する個人よりもより大きなまたはより高尚な目的を代表するものではないこと、また、『学校』には『家庭』や『国家』と同様に、各個人にできるだけ多くの発展と幸福を与える以外に『義務』も『権利』もないことを、人びとが覚るときはじめて学校問題が理解されるようになる。」(エレン・ケイ「児童の世紀」小野寺信・百合子共訳《富山房百科文庫》二八二頁)。
二〇世紀のはじめに発せられたエレン・ケイの右のような警告は、その後、西ドイツやアメリカにおいて前述のような法理が確立されてゆくなかで、次第にその実を結んでいつたといつてよいであろう。
世界教員憲章(一九五四年)が、その前文で教員は「思想の自由に対する生徒の権利を尊重し、彼のなかにひとりで判断する力が発達するようにうながしてやらなければならない」と注意深く規定することを忘れなかつたことも看過されてはならない。
4 子どもの基本的自由と教師の教育権限
教育は、学習権を有する子どもを中心に、子どもの親と教師がそれぞれ異なる役割をもちながらかかわる共同作業という側面を有している。
今日にあつても、親は、「子どもに対する自然的関係により、子どもの将来に対して最も深い関心をもち、かつ、配慮をすべき立場にある者として」(学力テスト判決)、自分の子どもとの関係においていわば自然的に権利を有し義務を負うものであつて(田中耕太郎「教育基本法の理論」一五四頁)、親の教育権はこの延長線上にあることに疑念の余地はない。
しかし、教師は、親が基本的には自然的血縁関係にあるのとは異なり、子どもとの関係では人為的作為的関係にあるにすぎず、学校教育制度という一定の社会的枠組の中で権限を有し義務を負つているにすぎない。換言すれば、教師は親の直接的な信託(私立学校の場合)もしくは間接的な信託(公立学校の場合)に基づいて存立しているとされている学校における機関(教育機関)として、子どもと接する。
したがつて、親という自然的血縁にもとづき子どもに対し広汎な権利と義務を持つ親権の場合と、親の直接的もしくは間接的な信託を受けた専門家としての社会的職責に由来する教師の権限とでは本質的な差があることが看過されてはならない。一口に子どもに対し教育の自由を有しているといつても、親の教育の自由と教師のそれは、その性質が著しく異つているのであつて、親がなしうることであつても教師がなしえない事項が存するのである。教師の教育の自由は、子どもの能力の全面発達をはかる専門家としての社会的職責から由来するもので、子ども及び親に対する関係においては一定の制限をうけているのである。
むろん、このことは、教師の教育の自由を軽視するものでも制限するものでもない。教師の教育の自由は、国家権力からの介入を排除するという意味で最大限に保障されなければならない。しかし、このことと、教師の教育の自由が、子ども及び親との関係では一定の限界があるとすることとは決して矛盾するものではない。
教師の子どもとの法関係は基本的には以上のようなものととらえるべきであり、したがつてそれは憲法上の「権利」というより実定法上の「権限」としてとらえるべきである(奥平康弘、憲法3《芦部編、有斐閣》四一七頁)。
教師の子どもとの法関係を、このように「権限」ととらえることによつて、はじめて、子どもが成長し、学習していく教育過程の中での教師の役割は、独力では十分な発達をなしえない子どもの学習を助け、その成長に寄与するものであり、したがつて、そこでは子どもが学習し、成長していくことが主であり、教師はこれを補助する関係にあることも十全に理解することができるものとなるであろう。また、教師が学校における子どもの基本的自由を保障すべき地位にあることも無理なく理解することができるようになるのである このようにして教師の教育権限は、今日にあつては、子ども・生徒の学習権に応え、また、子ども・生徒の基本的自由を保障すべき制約に服しているのである。学力テスト判決が「子どもの教育は、教育を施す者の支配的権能ではなく、何よりもまず、子どもの学習する権利に対応し、その充足をはかりうる立場にある者の責務に属するものとしてとらえられているのである」(傍点ー代理人)と判示しているのは、まさしくこの意においてである。
第一点 原判決は、憲法一九条、二一条及び教育基本法三条一項の解釈を誤り、判決に影響を及ぼすことが明らかな違法がある。
原判決は、思想・信条の自由及びこれにかかわる表現の自由について、憲法一九条、二一条及び教育基本法三条一項の解釈を誤つており破棄されなければならない。
一、原判決の判示
原判決は、本件内申書の「行動及び性格の記録」欄の記載について、「右備考欄等の記載が、被控訴人の思想信条そのものを問題とし、これにマイナスの評価を加えたものでなく、被控訴人の中学生としては明らかに異常な行動面を問題としたものであることはその記載自体に照して明らかである」と判示する。
さらに原判決は、「仮りにそれが一定の思想信条から発したものであるとしても(前認定の事実関係から被控訴人がそのころマルクス・レーニン主義を信奉していたとにわかに断定できず、またその他思想信条と呼びうるような具体的な内容をもつた一定の考え方を有していたかどうか必ずしも明らかであるとはいえないし、他にこれを認めるに足りる証拠もない。)、被控訴人が前認定のように生徒会規則に反し、校内の秩序に害のあるような行動にまで及んで来た場合において、中学校長が高等学校に対し、学校の指導を要するものとして、その事実を知らしめ、もつて入学選抜判定の資料とさせることは、思想信条の自由の侵害でもなければ、思想信条による教育上の差別でもない。」と判示して、本件内申書の記載について違法の問題が生じる余地がないと断定している。
すなわち原判決は、本件内申書の記載が、(1)上告人の思想信条そのものを問題としこれをマイナス評価したものではない、(2)上告人の行動面を問題としたものであることは記載自体から明らか、(3)仮りに一定の思想信条にもとづく行動であつても、生徒会規則に反し、校内の秩序に害のあるような行動にまで及んで来た場合には、その事実を入学選抜判定の資料とさせることは思想信条の自由の侵害ではない、(4)上告人が思想信条と呼びうるような一定の考え方を有していたとは認められない、というのである。
右判示は、憲法一九条の思想信条の自由が、内心にとどまるかぎりにおいて保障され、行動として外部に現われた場合には、もはやその保障は及ばないとの解釈を前提としており、また憲法一九条によつて保障される「思想信条」とは、「具体的な内容をもつた一定の考え方」に限定されているとしていることは明らかである。
原判決は、憲法解釈の基本前提において誤りをおかしたため、本件内申書記載事項が思想信条及びこれにかかる表現の自由と関係がないとする誤つた結論に達したものといわざるを得ない。
二、憲法一九条の思想信条の自由
1 内面的精神活動の保障
原判決は、憲法一九条の保障をうける「思想信条」とは「思想信条と呼びうるような具体的な内容をもつた一定の考え方」に限られると解しているが、これは誤りである。
憲法一九条は、内心におけるものの見方ないし考え方の自由を保障している(宮沢・芦部、全訂日本国憲法二三五頁)。
この保障は、人間の内面的精神活動を保障するものとしてできるかぎり広範囲なものであることが要求される(芦部信喜編、憲法2人権(1)二六九頁)。
したがつて右保障の対象は、体系的に確立された思想だけにとどまらず、「人生ないし政治に関する根本的な考え方ないし信念(世界観・根本的政治観など)」にも及ぶのであり、思想信条に関連する限り内心における価値判断、意思形成もこれに含まれると解しなければならない(芦部前掲二六九ー二七一頁)。
なお、最高裁判所も、憲法一九条の「思想信条」は、「特定の思想信条」に限定されるとはしていない(後記三菱樹脂事件)。
原判決は、憲法一九条の保障をきわめて狭く解し、「具体的内容をもつた一定の考え方に限定されるという誤りをおかしたものである。
2 思想信条にもとづく外部的行動
原判決は、「特定の思想信条が思想信条にとどまる限り、これを理由として教育上の差別取扱いをなしえないことはもちろんである」とし、思想信条は思想信条にとどまる限り保障され、行動として外部に現われた場合にはその保障は及ばないと解している。
しかしながら、思想信条の自由の保障が現実に問題となるのは、それが外部的行動として現われた場合なのであり、そのようにして表現された思想信条に対して干渉することを禁ずることが、憲法一九条の目的とするところである(久保田きぬ子、「思想・良心・学問の自由」憲法講座2一一〇頁)。
純粋な内心の思想信条が、法的問題となることはもともと想定し難いのであり、憲法が表現の自由(二一条)の他に一九条を定めている趣旨は、外部的な手がかりとして推認される思想信条の自由を保障する必要があるからである。「外部にあらわれた徴候(交友・加入している団体、そのほか行動ないし態度など)を根拠として、内心を推知することは不可能ではない(踏絵の例を見よ)から、本条(憲法一九条ーー上告代理人)が表現の自由等のほかに『思想及び良心の自由』を保障したのは、理由がないわけではない。」(宮沢・芦部、前掲書二三七頁)のである。
最高裁判所もまた、労働者を雇い入れようとする企業者が、労働者に対し、その者の在学中における団体加入や学生運動参加の事実の有無について、申告を求めた事例について「直接その思想、信条そのものの開示を求めるものではないが、さればといつて、その事実がその者の思想、信条と全く関係のないものであるとすることは相当でない。元来、人の思想、信条とその者の外部的行動との間には密接な関係があり、ことに本件において問題とされている学生運動への参加のごとき行動は、必ずしも常に特定の思想、信条に結びつくものとはいえないとしても、多くの場合、なんらかの思想、信条とのつながりをもつていることを否定することができないのである。」
「本件において上告人が被上告人の団体加入や学生運動参加の事実の有無についてした上記調査も、そのような意味では、必ずしも上告人の主張するように被上告人の政治的思想信条に全く関係のないものということはできない。」(最高裁昭和四八年一二月一二日大法廷判決、民集二七巻一一号一五三六頁)、と、判示しているところである。
最高裁の右判示は、「その者の従業員としての適格性の判断資料となるべき過去の行動に関する事実を知るためのものであつて、直接その思想、信条そのものの開示を求めるものではない」事例についての判示であることに留意すべきである。
すなわち過去の行動に関する事実を問題としており、思想信条そのものを問題としていないとしても、憲法一九条の規定する思想信条の自由の侵害となることは明らかである。
原判決は、思想信条にもとづく外部的行動の保護についての憲法一九条の意義を看過しその解釈を誤つたと評さざるを得ない。
3 本件内申書の記載
ところで原判決は、本件内申書の「行動及び性格の記録」欄中備考欄等に概ね「校内において、麹町中全共斗を名乗り、機関誌『砦』を発行した。学校文化祭の際、文化祭粉砕を叫んで他校生徒とともに校内に乱入しビラまきを行つた。大学生ML派の集会に参加している。学校側の指導説得をきかないでビラを配つたり、落書をしたり」と記載され(落書をしたという認定が弁論主義違背である点は後述)、また「出欠の記録」欄中の「欠席の主な理由」欄に、「風邪、発熱、集会又はデモに参加して疲労のため」という趣旨の記載がなされていた旨を認定し、これが記載自体から上告人の「中学生としては明らかに異常な行動面を問題としたものであることは」明らかであると判示している。
本件内申書の右記載事実の認定そのものには別に詳論するとおり重大な誤りがあり、さらに記載された事実に一部事実誤認があるのであるが、これを暫く措くとしても、右記載が、上告人の思想信条に関する事項についての記載であることは明らかである。
すなわち本件内申書は、麹町中全共斗を名乗つたこと、大学生ML派の集会に参加していること、ビラを配つたりしていること、などの上告人の思想的立場及び政治的な行動を記載し、しかもそのうえ欠席の主な理由を、集会、デモに参加して疲労のためとしている右記載は、「学校文化祭の際、文化祭粉砕を叫んで他校生徒とともに校内に乱入し」という、センセーショナルな表現とあいまつて、上告人が新左翼過激派の政治団体であるML派に所属あるいは関係をもち、その立場から麹町中学において機関紙を発行したり、ビラを配つたり、文化祭に「乱入」したりしており、そのために疲労して学校も欠席するほどであり、学校と対立し、なすすべもない、といつていると理解できるのである。原判決の認定によれば「ML派」とは、「当時存在した新左翼過激派の学生団体であることは公知の事実である」というのであるから、本件内申書の記載が、上告人の政治的思想的立場及び政治的活動について強く印象づけるように書れていることは、原判決の論旨からしても記載自体から明らかであるというべきである。確かに、本件内申書の記載が、主として上告人の行動の側面をとり上げる体裁で書かれていることは事実であるが、その行動とは、前記のとおり政治的な集会、デモへの参加、ビラまき、全共斗活動といつた上告人の思想信条ときわめて密接な関連を有する外部的行動をとり上げているのである。
前記最高裁判決(三菱樹脂事件)は、過去の行動に関する事実を問題としており、思想信条そのものを直接問題としていないとしても、その行動がなんらかの思想信条とのつながりを否定できない場合には、思想信条の自由の侵害になる旨を判示しているが、右判示によつても原判決の誤りは明白である。
三、内申書と思想信条の自由
1 選抜の重要な資料としての内申書
高等学校入学に際して用いられる内申書(法令上の用語としては調査書)は、学校教育法四九条、一〇六条にもとづく同法施行規則(以下「規則」という)五四条の三により、中学校長が生徒の進学志望学校長あて送付しなければならないとされ、送付された内申書は、入学者選抜の資料とされる(規則五九条一項)。
内申書は、かつて学力検査重視の傾向によつて、中学校教育が受験準備教育化し、その本来のあり方が歪められたことの反省から、平常の評価を入試に反映するしくみとして、選抜にあたり十分に尊重されるように運用されることになつた(一例として、乙第一二号証、八頁、四六頁参照)。
本件に即していうならば、「昭和四六年度東京都立高等学校等入学者選抜実施要綱」(乙第一号証、以下「選抜実施要綱」という)が、「第五選抜の方法」において、「選抜は調査書及び学力検査の成積並び入学願書による志望に基づいて行う。この場合、調査書が十分尊重されるよう配慮する。」と定めて、内申書重視をうたつている。また「高等学校入学者選抜制度の改善と教育の正常化について」と題する東京都教育長の通達(昭和四一年七月一四日、四一教指管発第二七二号、乙第一二号証九七頁参照)は、「調査書は、生徒の学習・行動および性格・健康などの記録をふくみ、中学校三年間の教育の成果を示すものであるから高等学校における入学者選抜の重要な資料として尊重すべきものである。と指摘し、内申書のすべての記載事項が「選抜の重要な資料」となることを明らかにしている。これらの事実は、本件内申書記載事項の一切が、「選抜の重要な資料」であつたことを、制度の趣旨の側面から裏付けるものである。
2 入学者選抜における「思想信条の自由」の保障
入学者選抜の重要な資料となる内申書は、公正に作成されなければならないことはいうまでもない。
公正に作成され、信頼に足る内申書でなければ、資料としての意味がないことは明らかである。
選抜における内申書の役割が重視されればされるほど、その記載の客観性、信頼性の確保が要請されることは当然であり、東京都においても、「中学校にあつては、公正妥当な信頼性の高い調査書を作成するよう努力を傾けなければならない。」と、特に注意が喚起されているところである(乙第一二号証)。
公正さのまず第一の要件は、子どもの基本的人権の侵害がないということであろう。
教育が、子どもの能力の全面的発達を促す営みであり、子どもがその主人公であることは、現代においてもはや疑う余地のないところである。
最高裁判所も憲法二六条の解釈について右の理を確認し、「子どもの教育は、教育を施す者の支配的権能ではなく、何よりもまず、子どもの学習する権利に対応し、その充足をはかりうる立場にある者の責務に属するものとしてとらえられている。」(学力テスト判決)ことを明らかにしている。
したがつて、教師の教育上の権能も、子どもの学習権を保障するという目的の範囲内で認められるものであり、そこに行使の限界も存するのである。
そうであるならば、教育の過程において子どもの学習権その他の基本的人権が侵害されてはならないばかりか、むしろ積極的に子どもの人権保障が実現されるよう配慮されなければならないことは理の当然である。
子どもの教育のための制度である公立中学校において、子どもの人権が損われることがあつてはならないことはいうまでもない。子どもの成長発達をより十全に果たす目的で教師に託されている教育上の権限によつて、子どもの人権が侵害されることを許すのであれば、学校制度存立の意義そのものが問題となろう。
憲法一九条は、「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」と定めており、この規定は精神的自由の絶対的保障を規定していると解せられる。教育関係においては、これをうけて、教育基本法三条一項が「すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないものであつて、人種、信条、性別、社会的身分経済的地位又は門地によつて、教育上差別されない。」と定め、信条による教育上の差別を禁じている。
入学試験の選抜において、思想信条による差別が行われたとすれば、右各条項に反することは明白である。思想信条の自由の保障は、選抜手続の過程のすべての局面について要請されるものであり、内申書の作成にあたつても、思想信条の自由の侵害が許されないことはいうまでもない。
内申書に子どもの思想信条にわたる事項を記載することは、その子どもの思想信条を合格者選抜の資料とさせることにほかならないのであつて、憲法一九条の定める思想信条の自由の侵害である。また思想信条を直接問題としていなくても、外部的行動を通じてとり上げている場合も同様である。
したがつて内申書の作成者は、子どもの思想信条に関する事項を内申書に記載してはならず、仮に思想信条に関する事項を記載した場合は、思想信条の自由の侵害といわざるを得ない。
本件内申書は、「選抜実施要綱」(乙第一号証)にもとづいて作成され、またそのうち「行動及び性格の記録」は、「東京都公立中学校生従指導要録の取り扱い」(乙第二号証以下「指導要録の取り扱い」という)に従つて作成されたものであるが、これら「選抜実施要綱」及び「指導要録の取り扱い」は、前記のとおり子どもの思想信条の自由を侵害しない範囲で有効とされるのである。
したがつて、本件内申書のように上告人の思想信条に関する事項を記載した内申書は、上告人の思想信条の自由を侵害し、憲法に違反するといわなければならない。
3 内申書制度自体が違憲とされる場合
「選抜実施要綱」(乙第一号証)は、「行動及び性格の記録」について、「項目ごとの評定は、生徒指導要録の記入要領により、中学校在学期間を通しての評定とする。なお、項目中「C」と評定した者については、備考欄にその理由及びその他指導上の問題点について具体的に記入する。」としており、「指導要録の取り扱い」(乙第二号証)は、各項目の趣旨を明らかにしているが(一七、一八頁参照)、これらの各項目が、子どもの思想信条に関する事項を評定の対象から除外していると解しなければならないことは、前記のとおりである。
また備考欄に、C評定の理由と無関係な事項の記載が許されていないことはいうまでもない。
もし仮に、「選抜実施要綱」及び「指導要録の取り扱い」によつて具体化されている本件内申書制度が、子どもの思想信条に関する事項を評定の対象とし、これに関する記載を許すものであるとするならば、本件内申書制度そのものが憲法一九条に反しており違憲無効とされなければならない。
四、公立中学校における生徒の表現の自由
1 原判決の誤り
原判決は「仮に一定の思想信条にもとづく行動であつても、上告人が生徒会規則に反し校内の秩序に害のあるような行動にまで及んで来た場合には、その事実を高等学校へ通知し、入学者選抜の合否判定資料とされることは思想信条の自由の侵害でもなければ、思想信条による教育上の差別でもない」と判示する。
しかし右判示は、前述のとおり、外部的行動に現われた場合には、思想信条の自由の保障が及ばないとする点ですでに誤つているが、さらに憲法一九条及び二一条の解釈を誤つたため、公立中学校における生徒の行動と表現の自由の保障について誤つた結論に到達したものである。
すなわち中学校の生徒といえども学校内において憲法の保障する基本的人権の享有を否定されないことはいうまでもない。そもそも学校は、子どもの基本的人権をより完全に保障するために設けられたしくみであり、学校において基本的人権が一方的に制約あるいは否定されるとしたら、それは背理としか評しようがない。
たしかに学校において一定の秩序が要請されることは事実であるが、この秩序とは、生徒の学習権を保障するための学校の教育活動を確保することを超えて認められるわけではない。
公立中学校における思想信条にもとづく表現行動が、右の意味の一定の制約をうけることは当然であるが、これは学校及び教師の一方的な制約を認める趣旨ではなく、生徒の人権保障との適正な調整が必要とされるのである。
原判決は、公立中学校における生徒の思想信条の自由及びこれにかかる表現の自由を保障すべき憲法一九条、二一条の要請を看過し、上告人の行動を「中学生としては明らかに異常」と断定する誤りに陥つたものである。
2 公立中学校内における生徒の表現行動とその制約
公立中学校において、生徒の学習権を保障するための学校の教育活動を確保するために一定の秩序あるいは規律が必要であることはいうまでもない。
生徒の思想信条にもとづく表現行動であつたとしても、そしてそれが思想信条に関連する点において慎重な配慮が必要であるとしても、行動自体がすべて無条件に自由といえないことは明らかである。
しかし、子どもの思想信条及びこれにかかわる表現の自由という憲法的価値の重要性を考えるならば、たとえ学校内であつても、学校あるいは教師が生徒の右自由を、一方的に制約できるという根拠を日本国憲法のもとにおいて見出すことはできない。
他方、集団的な教育の場である学校においては、ひとりひとりのすべての生徒の学習する権利が確保されなければならないといえよう。
何人も、自分の思想信条の自由の名のもとに他人の正当な権利を侵害することは許されないのであり、権利の衝突を調整し、その共存を可能とするルールが、いわば内在的制約として認められなければならない(兼子仁、「教育法新版」四一三〜四一五頁参照)。
公立中学校における、右のような内在的制約の基準として、当該表現行動が、物理的に教育・研究条件に障害をもたらす場合、あるいは、他生徒の学習権を侵害する場合をあげることが適切であるといえる。
これが権利の調整の原理であり、学校内における「秩序」なのである。
本件における上告人の表現行動も、こうした基準に照らして考察されなければならないことはいうまでもない。
3 アメリカ合衆国の事例ーーティンカー判決
このような公立学校における生徒の表現行動といわゆる学校の秩序との関係を論ずる場合、アメリカ合衆国におけるティンカー事件についての連邦最高裁判所判決(393U.S.503,前記、序、二、3、二一頁参照)が参考になる。
この判決でフォータス判事の法廷意見は、「生徒なり教師なりは言論・表現の自由という憲法上の権利を、校門のところで打ち捨ててくると主張することはできない。このことは当裁判所が、ほぼ五〇年にわたつて、明確に判示してきたところである。」として、学校内において生徒の表現の自由が保障されなければならないことを示したうえで、「本件の問題は、生徒の修正一条の権利行使が、学校当局の規則と衝突するところにある。」と問題の所在を指摘する。
そして、「われわれの体制では、はつきりと識別されないままでの、妨害に対する不安や憂慮だけでは、表現の自由の権利を制限することはできない。……禁止された行為を行うことが、『学校運営における適正な規律のために必要な要件と、著しく、かつ実質的に衝突する』ことになるとの証明も立証もない場合には、その禁止を是認することはできない。……学校当局者は、生徒に対する絶対的権限を有してはいない。われわれの憲法の下では、生徒は、学校外におけると同様、学校内においても、『人』である。」と、表現の自由行使制約の限界を判示した。さらに、「われわれの体制では、生徒は、閉ざされた中で、州が伝えたいと望むものだけを受け取る存在とみなされてはならない。……学校の果すべき主要な用途は、ある種の活動のために、定められた時間の間、生徒たちを調整することである。これらの活動の中には、生徒間の私的な意見交換がある。これは、在学という過程における不可避の部分というだけではない。教育過程における重要な一部分でもある。……生徒は、カフェテリアに、運動場に、あるいは許された時間に敷地内にいるときにも、『学校運営における適切な規律のために必要な要件と、著しく、かつ、実質的に、衝突』せず、また他人の権利と衝突しないのであれば、ベトナム紛争のような議論を呼ぶ論点についても、自らの意見を表明することができる。しかし、教室の内であれ、外であれ、生徒の行動が、どんな理由によるものであつてもーーその行動の、時・場所・方法といつたことから生じるーー授業を著しく妨害し、あるいは実質的な混乱や他人の権利の侵害を含むものである場合には、もちろん、言論の自由という憲法上の保障によつて免責されることはない。……もし、ベトナム紛争に関する討論や、これに反対する生徒の意見表明を、定められた教室内での討論以外には、学校内で禁止する規則が、校長会によつて決議されたとすれば、この決議は、少くとも、生徒の行動によつて、学校の機能及び規律が著しくかつ実質的に、混乱させられたということで正当化されるのでない限り、生徒の憲法上の権利を侵害するものであることは明らかである。」と判示した。
ここでティンカー判決が、「学校当局者は、生徒に対する絶対的権限を有してはいない」と正しく指適していることの意義を銘記しなければならない。
生徒の表現の自由は、「授業を著しく妨害し、あるいは、実質的な混乱や他人の権利の侵害」にわたるような場合にはじめて制約されるという判示は、「われわれの憲法の下では、言論の自由という権利は、原理としては存在するが、実質的には存在しないような制限的な与えられ方をされてはならない。」という指摘とともに、本件に対する憲法の適用について、重要な示唆を与えてくれるものと考えられる。
4 原判決の認定した上告人の「行動」
以上のような学校内における表現行動制約の基準に照らしてみるとき、原判決によつて問題とされた上告人の行動がどのようなものであつたかが考察されなければならない。
原判決は、上告人の学校内におけるいわゆる政治的活動を詳細に認定しているが(原判決理由第一、三、1、参照)、それが上告人の主張する、授業を妨害するなど物理的に教育・研究条件に障害を及ぼしたか、他生徒の学習権を侵害しているかという基準に反しているか否かの認定をしないばかりか、何の理由も付さずに「校内の秩序に害のあるような行動にまで及んで来た場合」であると判示しており、この点について理由不備の謗りを免れない。
前記ティンカー判決が、「われわれの憲法の下では、言論の自由という権利は、原理としては存在するが、実質的には存在しないような制限的な与えられ方をされてはならない
として、「われわれの体制では、はつきりと識別されないままでの、妨害に対する不安や憂慮だけでは、表情の自由の権利を制限することはできない。」と、正当に判示していることを想起すべきである。
原判決の認定する上告人の表現行動が、上告人主張の制約基準に反していないことは明らかである。
5「c」評定の理由としての備考欄特記事項の記載
ところで本件は、上告人に対する表現行動の規制局面での問題ではなく、上告人の思想信条にもとづく表現行動をマイナス評価の理由として内申書に記載した場合の問題である 上告人は、本件内申書の記載が、特記事項欄からはじまり備考欄に及んでいたもので、右記載が「C」評定とは別に麹町中学の上告人に対する報復の意図のもとに、上告人の思想信条に関連する事項を特別に高校に対して伝達する方法として利用されたものであると主張したが、原判決は、これに対して本件内申書の備考欄及び特記事項欄の記載は、「基本的な生活習慣」「自省心」及び「公共心」の三項目がC評定された理由であつたと認定した。
そうであるならば、備考欄及び特記事項欄の記載は右三項目のC評定の理由として、内申書制度の趣旨及び目的と適合したものであるか否かが問題とされなければならない。
入試における選抜資料としての内申書(校内における指導と異り、身分得喪に関する最終的かつ対外的な処分といえる)への記載は、単に前記制約基準に反したということだけでなく、三年間を通じた適正な評定でなければならないことは、いうまでもない。
本件備考欄及び特記事項欄の記載は、整理すれば次のとおりである。
1 校内において、麹町中全共斗を名乗つたこと
2 学校文化祭の際、文化祭粉砕を叫んで他校生徒とともに校内デモしたこと
3 麹町中全共斗の機関紙「砦」を発行したり、ビラを配つたりしたこと
4 大学生ML派の集会に参加していること
5 学校側の指導説得をきかないこと
6 落書をしたこと
(このうち6落書については、後述するとおり《第六点、一、参照》弁論主義に違背した認定であり、ここでは論じない。)
(一)1について
1「麹町中全共斗を名乗つたこと」は、上告人の政治的あるいは思想的立場の表明であるが、このような立場の表明は、そもそも全く自由であり、何らの制約をうけるべきことではない。またこのような立場の表明は、生徒会規則に反してもおらず、他生徒の学習権保障に何らの害も与えない。
(二)2について
文化祭は、生徒のさまざまな意見発表や催し物が行われる場であり、他校生徒を含む一般に広く学校を公開し、その来訪を歓迎している学校行事である。
その文化祭が一部の者の発表の場を封じたまま行われたことに対し、文化祭の運営に支障のない範囲内で、上告人が他校生徒とともに校内をデモ行進して批判の意思表示をすることは、表現の自由の行使というべきである。いうまでもなくこのような行為を禁じる生徒会規則は見あたらず、また、文化祭の運営に何の障害もなかつたのである。
(三)3について
新聞を発行したり、ビラを配つたりする方法で意見を発表することは、古くからもつとも一般的伝統的な表現行動であり、それ自体何ら問題とされるにあたらない。
このような新関及びビラの発行配布について、これを許可制とする生徒会規則は存在しないし、仮に存在するとすればその違憲性がまず問題となろう。こうした印刷物の配布によつて他生徒の学習権保障に何らの影響もない(なお、野沢校長は、ビラまきは生徒会規則によつて許可制とされていると証言するが《野沢証言第二回、二〇丁裏参照》、生徒会規則にそのような規定は存在しない。)。
(四)4について
4は、生徒の学校外での市民的自由に関することであり、生活指導的配慮の余地はありうるとしても、学校外での市民的自由の行使そのものについて学校側が評価の対象とする余地のないことである。
(五)5について
5については、指導説得の内容が問題となる。すでに検討したように「校内の秩序」に反しておらず、本来制約したり禁止したりすべきではない上告人の行動に対して、これを制約したり禁止したりする「指導説得」が誤りであつたと評さざるを得ないのである。
以上の五点は、いずれもマイナス評価の理由とはならない。
ところで、「基本的な生活習慣」とは、「生命の尊重・健康・安全の習慣が身についている。正しいことばづかいや能率的な動作ができる。身のまわりを整理整とんする。時間や物資や金銭をだいじにし、合理的に活用する。」、「自省心」とは、「自分の特性や長短を知つている。自分のあやまちを率直に認める。わがままな行動をしない。節度を守る謙虚に他人の意見に耳を傾ける。」、「公共心」とは、「きまりや規則を理解して守る。公共物をたいせつにする。公共の福祉のためにつくそうとする。」ということだとされている(乙第二号証)被上告人らは、本件備考欄及び特記事項の記載が、これら三項目の「C」のいずれと、どのように関連しているのかをついに明らかにできなかつたのであるが被上告人らの主張によれば、「基本的な生活習慣」には、右各欄のすべての記載事実が該当し、「自省心」には、指導説得をきかない部分が該当し、「公共心」には、「指導説得をきかない」旨の部分を除いたすべての記載事実が該当するとのことである。
しかしたとえば、麹町中全共斗を名乗つたこと(前記1)、新聞を発行したり、ビラを配つたりしたこと(前記3)、ML派の集会に参加したこと(前記4)が、前記の趣旨の「基本的な生活習慣」、「公共心」についてマイナスであるというのであれば、こうした外部的行動につながる上告人の思想信条をマイナスに評価したことにほかならない。
以上に検討したとおり、本件備考欄及び特記事項欄の記載は、上告人の思想信条及びこれにかかわる表現行動そのものをとり上げてこれを直接に否定的に評価し(前記1〜4)あるいは否定的な評価に基づく全面的禁圧に対する上告人の対応(前記5)を、マイナス評価しているのである。
これは、憲法一九条、二一条に反するものといわなければならない。
五、内申書における思想信条及び表現の自由の保障
入学者選抜の局面において、思想信条及びこれにかかわる表現の自由が保障されなくてはならないことは憲法の要求するところであるが、それは結局思想信条及びこれにかかわる表現の自由に関する事項を入学者選抜の資料とさせないということを意味する。
したがつて内申書には、右事項を記載してはならず、また、「行動及び性格の記録」欄においても、右事項を評定の対象あるいは理由としてはならないというべきなのである。
本件内申書の記載は、すでに明らかなとおり、公立中学校において、本来制約されるべきでない上告人の表現行動をマイナス評価の理由としており、上告人の思想信条及び表現の自由を侵害しているものである。
原判決は、憲法一九条、二一条の解釈を誤り、また教育基本法三条一項の解釈を誤り判決に影響を及ぼすべき法令の解釈を誤つた違法があり、破棄されなければならない。
第二点 原判決は、憲法二六条、一三条に違背する。
一、教育におけるプライバシー
原判決は、中学校長は、自校に在学する生徒につき、その知りえた情報をすべて、少なくともそれが事実である限り、調査書(以下「内申書」)に記載してよいとの立場を採つている。
しかし、生徒は、自己の在籍する学校に対して、ある種類の情報については、第三者に開示しないよう請求しうる権利を有する。この権利は、「教育におけるプライバシーの権利」とも称すべきであり、その根拠は、この権利が教育過程の本質から要請されるものであるという点では憲法二六条に、またこの権利が一般のプライバシーの権利の教育分野における現れであるという点では憲法一三条に存する。
二、教育の本質ーー子どもと教師の関係
教育は、子どもが人間として成長していくのに不可欠なものであり、子どもは、それゆえ、人間として教育を受ける権利を有する。最高裁判所が、学力テスト判決において、〔憲法二六条の背後には〕「国民各自が、一個の人間として、一市民として、成長、発達し自己の人格を完成・実現するために必要な学習をする固有の権利を有すること。特に、みずから学習することのできない子どもは、その学習要求を充足するための教育を自己に施すことを大人一般に対して要求する権利を有するとの観念が存在していると考えられる」と判示したのは、正にこの理を表したものである。
このような、子どもの成長・学習という教育過程の中での教師(学校)の役割は、独力では十分な発達をなしえない子どもの学習を助け、その成長に寄与していくことである。このように、子どもと教師(学校)との関係は、子どもの学習を基軸として、その発達を図ることを目的とするものであり、したがつて、子どもと教師(学校)との関係においては、子どもが学習し、成長していくことが主であり、教師(学校)は、これを補助するという副次的な地位に立つ。
三、教育関係における子どもの情報
教育基本法一条が、教育の目的として、「人格の完成」、「心身ともに健康な国民の育成」などをあげているとおり、教育は、子どもの知・徳・体のすべてにわたり、子どもの全人格面に及ぶものである。それゆえ、教師(学校)が子どもについて知りうる情報は、その子どものあらゆる面、すべての領域に及ぶ。更に、教育が相当程度の時間の継続を前提として初めて成り立つものである以上、教師(学校)が子どもについて知りうる情報は教育関係が存続している間に、多数集積されていくものである。すなわち、教師(学校)が取得する子どもの情報は、その質において多様であり、その量において厖大である。
このことは、教師の側から見ても十分に意味を持つ。教師が、子どもの教育を行なうについては、あらゆる種類の情報が、関連性を持ち、意味を有し、有益である。外形的な子どもの身体から始まつて、家庭環境から、本人の学習の結果、生活面の記録を含み、内面における思想・信条あるいは信仰に至るまでのひとつひとつの情報、一個の人間としての子どものあらゆる情報が、その子どもについて教育を行なうに際しては参照されうるのである。このことが、「その個性に応じて行われなければならない」(学力テスト判決)とされる子どもの教育にとつて必須の要件であることも当然であろう。
四、信頼関係に基づく情報取得
このように、教師が取得する子どもの情報は、広く、かつ、深いものであるが、教師の情報取得については、一般の情報収集・取得に比して、情報提供者と取得者の間に著しい特色がある。すなわち、子どもの教育には、これが、「教師と子どもとの間の直接の人格的接触を通じ……て行われなければならないという本質的要請」(学力テスト判決)があるのであつて、教師と子どもとの間には継続的な信頼関係が存在する。そして、教師の情報取得を支えるものこそ、この子どもとの信頼関係に他ならない。教師は、この信頼関係に基づいて、子ども・親から自発的な情報の開示を受けるのであり、子ども及び親は、教師を信頼するからこそ、情報を教師に提供するのである。
五、情報使用に関する教師の義務
1 既に見たとおり、子どもと教師との関係は、ある特定の目的すなわち子どもの成長・発達という究極の目的のために結ばれる関係である。教師が、その関係の中で、前述のような子どもとの継続的な信頼関係に基づき、その子どもの学習を補助するために得た情報は、すべてこの目的のために用いられなければならない。教師は、学校における教育の任にたずさわるものとして、子ども及び親から、個人・家庭の秘事にも及びうる各種の情報の開示を受けるのである。従つて、教師が、このようにして得た情報を教育目的にのみしか用いることができないのは自明である。比喩的にいえば、教師は、当該情報について、自由な処分をなしうる所有権者ではなく、委任の本旨あるいは信託の本旨に反した使用をなしえない受任者あるいは受託者でしかないのである。このような教育の本質に鑑みれば
教師が、その得た情報を、私利を図る、私怨を晴らすなど教育目的以外のために用いてはならないのは当然である。
しかし、子どもの情報の使用について教師に課せられる制約は、このような意図的な目的逸脱に限られるものではない。教師と子ども・親との関係は、本来、自律的、自己完結的なものである。両者は、子ども自身の成長を目的としつつ、継続的信頼関係を保つているのであり、そこでは、学校外の第三者は、一応捨象されている。第三者を意識せず、第三者からの容喙を許さず、ひたすら子どもの発展を図るのが、教師と子ども・親の関係である。従つて、この緊密な関係にある両者の間に第三者を介在させることが、両者の信頼関係を破壊させるものであることは明らかである。ところで、教師が子どもの情報を第三者に開示することは、正に、二当事者しかいない教育過程に、無関係の第三者を闖入させるに等しいことがらである。子どもあるいは親は、自らをあるいはその監督する子どもを教える教師・学校を信頼して、情報をその教師・学校に提供するのである。そこにおいては、教師・学校が、その情報を教師関係にない第三者に開示するなどということは、情報開示者たる子どもあるいは親の到底予想するところではない。特定の者に特定の目的で提供された情報が、何らの制限なく第三者に開示されることを許すならば、その提供を支える制度そのものが危機に瀕することになろう。教師・学校による第三者への開示を許すことは、教育過程にある子どもと教師の間の信頼関係を根本から覆すのである。
2 この点について、田中耕太郎博士が、「教育者に要求されるかような職業倫理と類似したものが他の種の職域に見出し得られるであろうか。もしそれにいくらか近いものがあるとするならば、これは裁判官、弁護士および医師である」と指摘されている(『教育基本法の理論』六八五頁)のは、極めて示唆的である。ここに挙げられた職業のうち、当事者と直接の信頼関係によつて結ばれるものではない裁判官をしばらく措けば、残る弁護士と医師(これらの職業では、依頼者との高度の信頼関係が要請されていることはいうまでもない)においては、依頼者の情報秘匿がその職業倫理の一つとして古くから確立されていたのである。現行法規においても、これらの職業倫理は、裁判手続における証言拒絶権あるいは秘密漏泄罪として確認されている(民事訴訟法二八一条、刑事訴訟法一四九条、刑法一三四条)。もちろん、依頼者の情報を他に明かさないというこの職業倫理は、裁判だけではなく、あらゆる場面において適用されるものである。法令に規定のない分野、あるいは法令をなんら意識することのない日常においても、これらの職業に就いている者は依頼者の情報を他に開示しないのであり、世人もそれを期待しているのである。もし、この職業に就いている者が、依頼者から取得した情報を自由に他に開示するとすれば、それにより当該職業に対する一般人の信頼が大きく揺らぐことは明らかであろう。弁護士・医師に関する以上の理は、教師についても全く同様である。子どもの情報が教師によつて第三者に自由に開示されうるとすれば、教師に対する信頼は失われるのであり、このことが「教育」に及ぼす悪影響は計り知れない。現行法において教師は証言拒絶権が認められていないということは、この論理を何ら左右するものではない。右の法規は、何もないところに権利を創設したのではなく、これらの職業での伝統的な職業倫理を、その職業における信頼関係の重大さに鑑みて、確認したに過ぎないのである。重要なことは、当該職業に就いている者は、職務上知りえた他人の秘密を他に洩らすことはないという世人の信頼感である。この点において、教師と弁護士・医師との間には何らの差異も存在しない。その果たすべき職務の重要さにおいても然りである。弁護士・医師が、あらゆる場面で依頼者に関する情報を明かしてはならないように、教師は、誰に対しても子どもに関する情報を開示してはならないのである(なお、右記の証言拒絶権は、通常であれば情報の開示を強制される証人という立場に立つた場合の規定である。本件のように自発的な情報開示が焦点となつている場合には、前者の場合の規定の差が前述の立論に影響を与えないのは当然である)。
3 更に付言すれば、いまここで問題とされているのは、開示された当該情報が真実であるか否か、客観的事実に符合するかどうか、あるいはその内容が子どもにとつて有利か不利かではない。情報の真実性・開示の有益性の点とは別に、開示するということ自体が、信頼を裏切るものとして問題なのである。情報が真実でありさえすれば教師の第三者への開示をとどめるものはないということになれば、子ども・親は他に知られたくない情報は教師にすら明らかにしなくなるであろう。子ども・親は教師を信頼できず、教師は子どもの教育に必要な情報を入手しえないというこの状態が、教育過程のあるべき姿から遥かに外れるものであることはいうまでもない。
以上を要するに、教師は、信頼関係に基づいて得た子どもに関する情報を、第三者に開示してはならないのである。
4 なお、この第三者に対する開示制限と、実定法との関係について一言する。確かに、現行法規においては、第三者への開示制限を明定するものはない。しかし、逆に、第三者への情報開示を積極的に容認する規定も存在しないのであつて、この問題は、広く憲法・条理などを基礎として考察するほかないのである。最高裁判所は、昭和五二年三月一五日の判決(民集三一巻二号二三四頁)で、大学について、「その設置目的を達成するに必要な諸事項については、法令に格別の規定がない場合でも、学則等によりこれを規定し、実施することのできる自律的、包括的な権能を有し、一般市民社会とは異なる特殊な部分社会を形成している」と判示したが、この「大学‖部分社会」とする論理は、別段、法令上の根拠を有するものではない。しかし、最高裁判所は、教育の目的達成にこの自律権能が必要であるとの考慮から、右のとおり判示したものである。従つて、この自律権能が、その発生の根拠からしても、右の目的達成のために必要な限度で与えられるべきであることは、当然である。すなわち、学校当局者には、直接の根拠条文がない場合であつても、一定の裁量権限が与えられるが、その権限には、限界がある。学校当局者には、権限もあるが、これに対応する責務も存在するのである。「学校当局者は、生徒に対する絶対的権限を有してはいない」(ティンカー判決)。まして、本件で問題になつているのは、以下に述べるとおり、生徒の思想・信条・表現にかかることがらである。このような問題については、学校当局の自律権能を制限する法令がないとして、絶対的・包括的な自律権能を認めることはできない。学校当局の自律権能それ自体がそもそも、法令の根拠を有していないのである。この点について、最高裁判所が、前記判決の中で、右の判決に続けて、「一般市民法秩序と直接の関係を有しない内部的な問題は右司法審査から除かれるべきものである」(傍点ー代理人)と述べたのは、正鵠を射るものである。生徒が一般市民として有する思想・信条・表現の自由に関する権利は、学校当局の自律権能に委ねられるべきことがらではない。その権能に内在する制約に違反した場合には、司法審査の対象となるのである。以上を要するに、学校当局には裁量権限が認められるが、その権限行使には一定の制約が存在するのであり、特に、被対象者の基本的人権に関する事項については、通常の司法審査がなされるのである。ここで問題としている、情報の第三者への開示が、教育過程そのものを崩壊させるものである以上、法令の直接の根拠がなくとも、自律権能に内在する制約を越えるものとして、これは禁止されるのであり、本件においては、特に、生徒の基本的人権が侵害されたのであるから、司法審査が要請される度合は、いつそう強いのである。
六、高校への情報開示とその限界
高等学校は、中学生が進学を希望しているとはいえ、その中学生と中学校との間に成立している教育関係から見れば、当事者ではない単なる第三者でしかない。その点では、通常の第三者とは何ら異なる立場に立つものではない。従つて、中学校は、生徒について知りえた情報を教育関係にない第三者に開示してはならないとの前記一般命題があてはまるのである。
しかるに、法(規則五四条の三)は内申書による、中学から高校への一定の情報伝達を認めている。その目的は、試験当日の一発勝負となりがちな入学試験の弊害を避けるとの配慮(都教育委教育長昭四〇・一一・一九付通達教指管発四五三号及び都教育委教育長昭四一・七・一四付通達教指管発二七二号参照)から、中学生活における各種の情報の中で高校入学者の選抜に必要とされる情報を提供するというところにあるとされる(規則五九条一項が、「高等学校の入学は、……調査書その他必要な書類、選抜のための学力調査……の成績等を資料として行なう入学者選抜に基づいて、校長がこれを許可する」(傍点ー代理人)と定めるのはこの謂であり、そこでは、内申書(調査書)に記載される情報は、入学者選抜に関連したものとされるということは、当然の前提とされている。なお、この点については行政裁量との関係において、後に詳述する)。志願者自身が当該高校への入学を希望しており、高校は受験時に第三者であるとはいえ、入学志願者は、入学を許可されれば当該高校との間に教育関係が成立するのであるから、中学が高校にある種類の情報を開示することを許している現行法自体を違憲と解する必要はない(但し、後述の、思想信条・表現・信仰に関する情報についての制限が適用されないのであれば、そのような種類の情報の開示を許す内申書制度それ自体が違憲となる)。
しかし、ある目的のために情報の開示が許されるということは、中学校が教育過程において知りえたすべての情報の開示が許されるということではない。高校といえども未だ教育関係外の第三者でしかないことは前述のとおりである。入学者選抜のために内申書が存在し、その限りで内申書による情報伝達が許されるのであるから、中学校が内申書で開示しうる情報は、入学者選抜のために必要とされる情報に限られるのは当然である。
七、思想・信条・表現・信仰に関する情報
1 公立高校
既に述べたとおり、中学校がその生徒について知りうる情報は多様である。このうちどれが内申書への記載が許され、どれが許されないかについては、憲法上の問題が存在しうる。以下これを検討するにあたつては、いわゆる「憲法の私人間への適用」の論点が存するので、高校を公立と私立に分けて論じる。
まず、志願者のいわゆる成績については、「能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利
(憲法二六条一項)を認める憲法の下では、高校における入学者の選抜に際して必要な事項と考えられるから、これらに関する情報は、内申書において中学から高校へ開示しうる情報の中に含めてもよいであろう(この点については、公立高校と私立高校の間に差はない)。しかし、他方、思想・信条ならびに表現の自由を認め(同一九条、二一条一項)、信教の自由を保障した(同二〇条一項)憲法の下では、これらの事項は、公立高校においては、入学者選抜の考慮対象とはなしえないのである。公的機関が、その処分をなすにあたつて、思想・信条をチェックし、表現の内容についての申告を求め、あるいはその信仰の有無・種類について尋ねることが、被対象者のこれらに関する自由を侵すものであり、許されないものであることは云うまでもない。このことは、人権思想の揺籃期において、「思想・信条の自由」(当時においては、この用語の中には「信教の自由」も含まれていた)が、何よりもまず、「沈黙の自由」(これに関する審問に答えない自由)を意味していたことからも明らかである。公の機関が、その裁量にかかる行為(入学者の選抜はその一つである)を行なうに際して、右に挙げた人の内面にわたる事項を考慮の一要素とすることは、これらの事項について公機関として価値判断を加え、評価を下すことになる。これは、正に憲法の禁止するところである。これを許すことは、実質的には、その時点で優勢でない思想・信条を持ち、信仰を有する者、すなわち対象分野における少数派に対しての圧力を容認することなのである。
従つて、公立高校は、入学者選抜にあたつては、これらの事項を考慮の対象外に置かなければならず、それゆえ、中学生徒のこれに関する情報については、その開示を請求することができない。逆に、中学の側においては、生徒の思想・信条及びこれにかかる表現行為ならびにその信仰については、入学者選抜に関連しないものとして、第三者たる高校に開示することはできない。
2 私立高校
憲法の私人間への直接適用を否定する立場からは、私立高校には憲法で保障された思想信条・表現・信仰の自由が直接には及ばないとされよう。しかし、かかる立場であつても右に挙げた人の内面にかかる事項について、高校が開示を請求し、中学がこれに応じて開示しうるのは、当該私立高校において、人の内面に関するこれらの情報を、入学者選抜に不可欠なものとして事前に明示的に要求したときだけでなければならない。現代の日本においては、通常の私立高校の場合には、生徒の思想・信条・表現・信仰にかかる事項については、入学者選抜とは係わりないと観念されているのである。これを超えて何らかの情報を必要とする場合に、何についての情報を必要としているかは、各私立高校がその自主的判断によつて定めるべきことがらである。従つて、私立高校からある事項を入学の資料とすることが事前に明示され、そのうえで中学生が当該私立高校への入学を志願した場合にのみ、中学校は、当該生徒に関する要求事項を、高校に開示しうると解される。この場合には、情報の開示について、情報の所有者である生徒(または親)の同意があるとみなされるために、これが許されるのである。私立高校からの明示の要求とそれを知悉したうえでの生徒の同意がない場合には、中学校はその保持する情報を第三者に開示することはできないとの一般原則が適用になり、入学者選抜に関連しないこれら情報を、第三者たる私立高校に開示することはできない。
八、本件への適用
以上の理を本件に適用すれば、原判決の誤謬は明白である。
既に述べたとおり、本件で内申書の備考欄等に記載された事項は、もつぱら上告人の思想・信条及びそれに基づく表現に関することがらであり、「行動及び性格の記録」欄の評価も、右思想・信条・表現に関連する事項に基づいてなされたものである。すなわち「麹町中全共闘を名乗る」、「機関紙を発行する」、「学校文化祭に『乱入』した」(「乱入なる用語は、原判決の標榜するような「事実をありのままに要約記載したもの」とは到底いえず、明らかに価値判断を含んだ用語である。事実は、中学校の文化祭のありかたに疑問を持つていた上告人が、このことを訴えようとして、校内に入り、ビラを撒くなどして自らの意見をアピールしたというものである)、「大学生の集会に参加している」、「ビラを配る」等の行為は、すべて上告人の思想・信条に直接結びついたものであり、かつ、憲法でその自由を保障された表現そのものである。原判決は、「備考欄等の記載〔は、上告人〕の思想信条そのものを問題とし、これにマイナスの評価を加えたものでなく、〔上告人〕の……行動面を問題としたものである」とするが、思想・信条と表現行為は画然と分離しうるものであり、両者は全く別個の判断基準が適用されるとするこの判示が誤りであることは、前述のとおりである。個人の思想・信条が問題とされるのは、それが表現をとおして外部の人間がこれを了知しうるまでに至つた場合であり、かつ、行為を伴わない「純粋な表現」(pure speech)というものはありえず、表現には常に行動が伴う(speech plus)のである。すなわち、思想・信条に基づく表現行為は、その意味では常に、「行動」として現れざるをえないのである。このように現れた表現行為を、すべて「行動」であるとして、これを「問題とし」、これに「マイナスの評価を加え」ることは、とりもなおさず、当該思想・信条をマイナスとし、それに基づく表現を規制することに他ならない。このことが、憲法一九条、二一条に違反するものであることはいうまでもない。本件における上告人の行為が、思想・信条に基づく表現行為であり、かつ、中学校において、これを規制する正当な権限を有していなかつたことについては、既に述べたので、ここでは再説しない。
以上明らかにしたとおり、本件で問題とされた事項は、人の内面にかかるものであり、これらの事項は、そもそも、公立高校においては、入学者選抜に際して考慮されてはならない事項であつた。これを公立高校へ開示したことは、教育目的とは何ら関係しない目的に当該情報を使用したことにほかならない。このことは、子どもに関する情報は教育目的にのみしか用いることはできず、これと無関係に第三者に開示することはできないとの前記「教育におけるプライバシー」を侵すものである。
また、本件においては、上告人が入学を志願した私立高校から、上告人の思想・信条・表現に関する事項について、入学者選抜の資料としたいので開示されたいとの要請もなくまた、上告人において、これらの事項に関する情報の開示に同意したとの事情もないのであるから、中学において、これらの情報を内申書に記載し、私立高校に開示したことは、公立高校に対する場合と同様、「教育におけるプライバシー」を侵すものである。
以上のとおり、原判決が、中学校長は、内申書に中学生の思想・信条・表現に関する事項を記載しうるとしたのは、憲法二六条、一三条の解釈を誤り、これに違反したものであり、原判決は破棄を免れない。
第三点 原判決は、憲法二六条、教育基本法三条一項に違背し、判決に影響を及ぼすこと明らかな法令違背がある。
一、原判決の判旨と上告人の主張の矮少化の誤り
1 原判決の判旨
原判決は、学習権及びその具体的一内容たる進学権が万人に保障されたものであるにしても、各人の能力に応じた分量的制約を伴うものであり、入学者選抜の資料として提出される調査書が本人にとつて有利にしか働かないとすることは制度上不可能であると判示して、上告人の憲法二六条、教基法三条一項に関する主張を排斥している。
右判示部分は、上告人が憲法二六条、教基法三条一項による学習権及びその具体的一内容たる進学権の保障は学校長の教育評価権に優先するものであり、「中学校長は進学のための調査書に、およそ受験者の進学を妨げるような事項を記載してはならないとの見解」を前提としてその主張を展開していると解したうえで、そのように原判決が解した上告人の主張は理由がないとしたものである。
2 上告人の主張の矮少化の誤り
しかし、上告人が一審以来主張してきたことは、原判決が右のように曲解し、あるいは歪曲したうえ矮少化したようなものでは決してない。
このことは、後にも(第六、二、2)もう一度述べるが、要するに、上告人は、一審以来、教師(学校長)の教育評価権限は憲法二六条が保障する子どもの学習権に原理的に規律される権能であり、従つて、子どもの学習権を害することがないように行使されなければならないという制約に服しているが、思想・信条の自由及びこれにかかわる表現の自由に関する事項はまさに教師の教育評価権限を超える事項である、と主張している(一審準備書面(最終)九一丁、原審準備書面(一)一一丁、同準備書面(三)二丁、同準備書面(五)(最終)一五丁、四〇丁等)にすぎないのであつて、原判決のいうように、学習権進学権と中学校長の教育評価権を一般化し、単純に対比して前者の後者に対する優先を説き、これを当然視しているわけではない。したがつて、また、上告人はそこから、中学校長は調査書に、およそ受験者の進学を妨げるような事項を記載してはならないとの制約が生じてくるなどというおよそ荒唐無稽な主張をしているのでもない。むしろ、上告人は、たとえば、原審準備書面(五)(最終)三四丁においても「教師はこれらおびただしい事実の中から評価の目的……に即してそれに必要な限りで事実を選択する……。内申書はあくまでも選抜のための資料であつて、進学後の教育指導上の資料ではないのであるから、そこで書かれるべき事実も選抜の目的との関係で決められなければならない。進学後の教育指導上の資料として役立つ事実も選抜の目的に供することが公正でない場合には内申書に書くべきではない」としたうえで、「真に選抜の資料として役立つ事実を歪めて記載することが許されないのも当然である」として真に選抜の資料として必要な事実は不利益であつても歪めることなく記載すべきことを主張しているのである。(なお、原審準備書面(五)五四頁)原判決は上告人の主張を正しく把握せず、矮少化してしまつたのである。原判決のいう、上告人の主張の前提にある「見解」なるものは、それ自体、原判決が独自に想定したものにすぎない。
二、憲法二六条の学習権の保障の意義
今日、憲法二六条の「教育を受ける権利」は、子どもの学習権を基軸として把握されるようになつている。
すなわち、憲法二六条の教育を受ける権利は、近代における「子どもの人権」の思想を受けて、子どもの人権の中核をなす学習権の実定法的規定として、子どもの学習の権利を現実に充足するものとして把握されている。
「学習権は、人が自ら人をつくるのだということ、自ら内面に原因をもつて探究し、選びながら発達する人間の発達過程の特質、それの保障なしには、人間が人間的諸特質のどの一つをも実現しえないということ……からして、まさしく人間の生存権の一部として自覚されてきたものである。」(大田尭「教育評価と子どもの学習権」季刊教育法一二号、一二頁)
このようにして、今日、憲法二六条は、主体の側に即して、より積極的に、発達の可能態としての子どもが人間として全面的に成長発達するための学習と探究の権利、それを保障する教育への権利として把握されているのである。(兼子仁、教育法《新版》一九八頁等、小林直樹、憲法講義上《新版》五七〇頁等)。
学力テスト判決で最高裁判所が、憲法二六条の規定の背後には、「国民各自が、一個の人間として、また、一市民として、成長、発達し、自己の人格を完成、実現するために必要な学習をする固有の権利を有すること、特に、みずから学習することのできない子どもは、その学習要求を充足するための教育を自己に施すことを大人一般に対して要求する権利を有するとの観念が存在している」と判示したのも、憲法二六条の権利を子どもの学習権を基軸として把握すべきだとする右見解を裁判所としても基本的に採用することを明らかにしたものにほかならない。
一審判決が「国民の教育を受ける権利は、各自が人間として成長発達し、自己の人格の完成を実現するために必要な学習をするものとして生まれながらに有する固有の権利というべきである」と判示したのも、最高裁判所の右学力テスト判決にそつて権利としての学習権を展開したもので、もとより正当である。
「教育を受ける権利」に関する右のような解釈が、今世紀における各種国際的宣言にも合致していることは前述(序、一、2、(三))したところであり、ここではくりかえさない。
三、学習権の一内容としての「合理的かつ公正な選抜手続を経て進学する権利」の保障
1「合理的かつ公正な選抜手続を経て進学する権利」
今日、義務教育課程を終了した子どもは、多く学習と探究のさらなる充足を求めて、上級学校への進学を希望する。(本件とのかかわりで、以下では上級学校を高等学校に限定して論述することにする)。
現在の学校教育制度の下では、中学校卒業生は希望する高等学校の側の一定の選抜手続を経て、その基準に合格した場合にのみ入学を許されるものとなつている。
したがつて、中学校卒業生は特定の高等学校に当然に進学する権利が認められているわけでないのはもちろんである。むろん、上告人もそのような主張をしているわけではない しかし、だからといつて、今日、生徒は進学について何らの権利あるいは法的利益も有していないわけではない。
憲法二六条の「教育を受ける権利」は、現行学校制度のもとで、生徒が義務教育以上のより上級の学校に進学して教育を受ける権利をも保障するものである。なぜならば、発達の可能態として子どもはつねにより高いレベルの学習を志向するものであるから、憲法二六条の「教育を受ける権利」は、学校教育制度のもとで、進学という契機に一定の法的保護が与えられることを要請しているとみるべきだからである。このように解しなければ、結局憲法二六条の「教育を受ける権利」は義務教育課程以外では画餅に帰してしまうことは明らかである。そうだとすれば、生徒は、特定の高等学校へ進学する権利はないにしても、一定の選抜手続の下で進学する資格・能力・可能性を他の生徒と同じように、教育本来の目的に照らして判定してもらう権利を、どの子どもも「能力に応じてひとしく教育を受ける権利を有する」とする憲法二六条により保障されていると考えることができる。すなわち、進学を希望する生徒は、高等学校の選抜手続において他の志願者と平等に合理的かつ公正な取り扱いを受ける権利を有しているのである。
これを選抜にかかわる教育機関の側からみれば、これら教育機関は合理的かつ公正な基準と方法でその生徒に進学する資格・能力・可能性があるかどうかを判定させ、または、判定して合否の決定をさせ、または、決定をする義務を負つている、というべきである。
このようにして、「合理的かつ公正な選抜手続を経て進学する権利」は、憲法二六条を根拠にして、教育基本法、学校教育等の具体的法令に体現され、具体的な選抜行為にまで貫かれることになる。右権利を、上告人は一審以来「公正な手続による進学を保障される権利」(進学権)と称してたのである。
2 内申書の作成・提出と「合理的かつ公正な選抜手続を経て進学する権利」
(一)選抜の重要な資料としての内申書
現行学校教育法施行規則五九条一項によれば、高等学校における入学者の選抜にあたつては、学力検査等とともに内申書(調査書、以下同じ)がその選抜の資料とされている。
内申書が入学選抜手続において占める位置は、その導入以来入学選抜制度のあり方との関連で変遷を重ねてきたが、一九六六年(昭和四一年)七月一八日「公立学校入学者選抜について」との文部省初等中等教育局長通達四二号により「選抜にあたつては、調査書をじゆうぶんに尊重すること」とされて以来、重要な選抜の資料とされるに至つた。
このことは、たとえば「高等学校入学者選抜制度の改善と教育の正常化について」(乙第一二号証、九七頁)によつて、「調査書は、生徒の学習・行動および性格・健康などの記録をふくみ、中学校三年間の教育の成果を示すものであるから、高等学校における入学者選抜の重要な資料として尊重すべきものである」(傍点ー代理人)とされていることによつても明らかである。
したがつて、「合理的かつ公正な選抜手続を経て進学する権利」の保障は、右のように選抜にあたつて重要な資料となる内申書の作成・提出にまで及ぶのは当然である。中学校は進学希望者が高等学校において合理的かつ公正な選抜を受けることができるように、内申書を公正に作成・提出する義務を負つているのである。
(二)内申書の果している機能と性格
今日、内申書は選別教育体制の制度的集約点として根本的にその存在を厳しく問われている。
内申書はもともと、学力検査中心の入学試験制度を改善する目的で導入されたものであるが、現在の進学事情(たとえば、進学者数についてみても、全中学卒業生の実に九四パーセント余が高等学校等に進学している、とのことである)の下では、内申書が選抜資料として重視されればされるほど、現実には入学試験制度の改善という当初の目的からは遠のくというアイロニーに陥つていることは否定しえない。内申書に記載される学習成績をあげるために競争が日常的となり、「入学試験の日常化」は中学の三年間を絶えまのない級友との生存競争の場としている。
それどころか、内申書は生徒の日常の学習成績や行動が、教師により選抜の資料として記載されることを意識する生徒によつて、教師への服従的態度やさらには追従的態度を生み、逆に、教師によつて生徒管理の手段とされて、教師を「小権力者」に堕せしめるものとなつている。また、学校運営に対し意見や批判をもつ親も、それが我が子の内申書に及ぼす影響を考慮して口をつぐんでしまうことになる。
とりわけ、黙過しえない事態は、内申書が、(イ)現在にあつては、その内容が生徒や親には一切開示されないまま、中学校長から高校等に直接送付されるものとなつており(秘密性)、しかも(ロ)その内容について、生徒や親の側には開示請求・訂正申立等の権能は一切認められておらず、もつぱら教師(校長)が一方的に決定するところにゆだねられており(一方性)、(ハ)そのような内申書が選抜目的に供されることによつて生徒の身分の得喪を決定的に左右するものとなつている(最終性)、ことである。
内申書が子ども・親に対してもつ右秘密性・一方性・最終性という性格は、これを子どもに対する他の教育文書(通信簿等)と対比するとき、より明らかである。
これは、すなわち、その内容も明かされず、またその内容が間違つていても訂正されることもない内申書によつて、生徒の進学の可能性が事実上奪われることもありうる、ということを意味している。
(三)内申書の合理的かつ公正な作成と記載事実の限界
内申書の選抜手続上に占める重要な位置、その現実に果している機能、その性格からすれば、内申書が合理的かつ公正に作成・提出されなければならないことはより一層明白なものとなるであろう。生徒は、憲法二六条により、学習権の一内容として、内申書を合理的かつ公正に作成・提出されて合理的かつ公正に選抜を受ける権利(利益)を有しているのである。
内申書を合理的かつ公正に作成するとは、すなわち、入学者選抜に必要な事項はもれなく記載するとともに、選抜と無関係な事項または選抜にあたつて考慮してはならない事項はこれをすべて除くということを意味する。
今日、憲法の下で公的教育機関が選抜を思想・信条・宗教等のいかんによつて行つてはならないことは、前述(第一、第二、七)したところである。これは教基法三条一項が禁ずるところでもある。
また私立高校においても、これらの子どもの内面にかかわる事項については事前に高校側が選抜条件とすることを明示し、志願者がこれを知つて応募したときは格別、通常は選抜の考慮対象とされてはいないし、またそのように観念されているのである。
このことは、とりもなおさず、中学校においても、思想・信条・宗教等を選抜の資料に供してはならないことを意味する。内申書にこれら生徒の思想・信条および表現の自由に関する事項を記載することが許されないのはこの故であつて、内申書におよそ子どもに不利益なことを記載してはならないからではない。
四、しかるに、原判決は、上告人のかかる主張を前記のとおり曲解・矮少化し、それを前提にして「野沢校長が本件調査書を作成し、各高等学校に提出した行為は、すべて権限に基づく正当な行為であつて、これを違法とする余地はないといわねばならない」と判示したのであつて、憲法二六条の解釈を誤り、憲法二六条と同旨の教基法三条一項にも違背することは明らかである。原判決は判決に影響を及ぼすこと明らかな法令違背がある。よつて、原判決は破棄を免れない。
なお、原判決は、前記のように憲法二六条及び教基法三条一項の解釈を誤つたことによつて、後述のとおり(第七、三、)判断をすべき事項について判断遺脱の誤りを犯していることは明らかである。
第四点 原判決は、学校教育法四〇条、二八条、同法施行規則五四条の三の解釈を誤り、判決に影響を及ぼすこと明らかな違法がある。
原判決は、内申書中の「行動及び性格の記録」欄の評定及び同「備考」欄等の記載につき、中学校長に、広範な裁量権限を認めた。すなわち、前者においては、「判断の前提となつた事実の記載に誤りがあつたり、前提となつた事実関係から導き出された判断結果が一見明白に不合理なものであつたり、あるいは内心的判断と外部に表現された判断結果とがそごしているなど特段の事情のない限り、右裁量権の行使が違法とされる理由はない」とし、後者については、「〔記載内容が〕事実に反しているなど特段の事情がない限り、違法とされる理由はない」としたのである。
しかし、中学校長の裁量権限に関するこの判示は、司法審査の及ぶべき範囲を極度に狭めるものとして失当であるとともに、実体的には、中学校長の内申書作成権限に関する規則の解釈を誤つたものである。
一、行政裁量と司法審査
1 法は、行政庁に対し、行政行為を為すに際して、裁量を与える場合がある。しかし、いかなる行政裁量といえども、その行使にあたつては、憲法あるいは条理などによる限界が存するのであり、この限界を越えた場合には違法となる。講学上、行政庁の処分が自由裁量の限界を越えるとされる場合としては、
1 処分が、行政庁の不正な動機や恣意によつて為された場合。
2 処分が、行政庁に当該権限を与えた法の趣旨・目的に従つて為されたと認められない場合。
3 処分の前提とされた事実に誤認がある場合。
4 処分が、比例原則や平等原則に違反する場合。
5 処分が、社会通念上合理性を欠く場合。
6 処分に際して、考慮されるべき事項が考慮されず、考慮されてはならない事項が考慮されている場合。
などがあげられている。
2 行政裁量に対する司法審査の範囲に関する最高裁判所の従前の判決も、概ね右の諸原則を認めるものである。すなわち、
1について、最高裁判所昭和四八年九月一四日判決(民集二七巻八号九二五頁)は、地方公務員の分限降格処分につき、「任命権者にある程度の裁量権は認められるけれども、もとよりその純然たる自由裁量に委ねられているものではなく、分限制度の……目的と関係のない目的や動機に基づいて分限処分をすることが許されないのはもちろん」とし、また最高裁判所昭和五二年一二月二〇日判決(民集三一巻七号一一〇一頁)は、公務員に対する懲戒処分について、「〔懲戒権者〕の裁量は、恣意にわたることを得ないものであることは当然である」とし、
2について、最高裁判所昭和四四年七月一一日判決(民集二三巻八号一四七〇頁)は、外務大臣の旅券発給拒否処分について、「外務大臣が旅券法一三条一項五号の規定により旅券発給拒否処分をした場合において、裁判所は、その処分当時の旅券発給申請者の地位経歴、人がら、その旅行の目的、渡航先である国の情勢、および外交方針、外務大臣の認定判断の過程、その他これに関するすべての事実をしんしやくしたうえで、外務大臣の右処分が同号の規定により外務大臣に与えられた権限をその法規をその法規の目的に従つて適法に行使したかどうかを判断すべきものであつて、その判断は、ただ単に右処分が外務大臣の恣意によるかどうか、その判断の前提とされた事実の認識について明白な誤りがあるかどうか、または、その結論にいたる推理に著しい不合理があるかどうかなどに限定されるものではないというべきである」とし、また、最高裁判所昭和五三年五月二六日判決(民集三二巻三号六八九頁)は、知事の児童遊園設置認可処分について、「〔個室付浴場業の開業を阻止することを主たる目的としてなされた〕本件児童遊園設置認可処分は行政権の著しい濫用によるものとして違法である」とし、
3について、最高裁判所昭和二九年七月三〇日判決(民集八巻七号一四六三頁)は、公立大学生の懲戒処分につき、学長の裁量は認められるものの、「このことは、学長がなんらの事実上の根拠に基かないで懲戒処分を発動する権能を有するものと解することの根拠となるものではなく、懲戒処分が全く事実の基礎を欠くものであるかどうかの点は、裁判所の審判権に服すべきことは当然である」とし、
4については、最高裁判所昭和三〇年六月二四日判決(民集九巻七号九三〇頁)は、食糧管理法に基づく米の供出割当につき、「〔その方法・時期等については、法令には何等具体的な定めがなく〕一応、行政庁の裁量に任されていたものと解さざるを得ない。もつとも、かような場合においても、行政庁は、何等いわれがなく特定の個人を差別的に取り扱いこれに不利益を及ぼす自由を有するものではなく、この意味においては、行政庁の裁量権には一定の限界があるものと解すべきである」とし、
5について、前掲最高裁判所昭和二九年七月三〇日判決は、「学生の行為に対し、懲戒処分を発動するかどうか、懲戒処分のうちいずれの処分を選ぶかを決定することは、この点の判断が社会観念上著しく妥当を欠くものと認められる場合を除き、原則として、懲戒権者としての学長の裁量に任されている」(傍点ー代理人)とし、
6について、前掲最高裁判所昭和四八年九月一四日判決は、「処分事由の有無の判断についても恣意にわたることを許されず、考慮すべき事項を考慮せず、考慮すべきでない事項を考慮して判断〔した〕……ものであるときは、裁量権の行使を誤つた違法のものであることを免れないというべきである」として、
それぞれ右に述べた講学上の諸原則を認めている。
従つて、裁判所は、行政庁の裁量処分については、単に処分の前提とされた事実の真実性(前記3)や、処分の合理性(前記5)についてのみしか判断しえないものではなく、憲法、条理あるいは法秩序全体から演繹される右のような、行政裁量に関する司法審査の判断基準全体に従つてこれを考察し、当該処分が、いずれかの理由により裁量の限界を超えたと判断される場合には、これを違法と判断しなければならない。原判決は、裁量処分に対して司法審査が及ぶ範囲を、前記3と5の場合についてしか認めておらず、この点でそれ以外の場合(前記1、2、4、6)にも司法審査が及ぶことを認めた前記各最高裁判決に反するものである。
二、学校教育法施行規則五四条の三に基づく中学校長の裁量の範囲
1 司法審査の及ぶ範囲の判断基準としては抽象的には右のような原則があげられているが、個々の行政行為における行政庁の裁量の範囲については、右の諸原則を当該対象に適用し、究極的には、当該裁量を認める法規の趣旨・目的によつて、具体的な裁量権の範囲を決するほかない(田中二郎「行政法総論」二八五頁以下)。
そこで、本件で問題とされている内申書(調査書)について、具体的な法規の定めを見るならば、規則五四条の三は、「校長は、中学校卒業後、高等学校、高等専門学校その他の学校に進学しようとする生徒の有る場合には、調査書その他必要な書類をその生徒の進学しようとする学校の校長あて送付しなければならない」と規定している。これを受けて規則五九条一項は、「高等学校の入学は、第五四条の三の規定により送付された調査書その他必要な書類、選抜のための学力検査(以下本条中「学力検査」という。)の成績等を資料として行なう入学者の選抜に基づいて、校長が、これを許可する」と定め、内申書(調査書)が、入学者選抜のための資料であることを明らかにしている。
ところで、内申書については、様式等について大綱的な定めはあるものの、どのような事項を選択し、どのように評価すべきかについては、校長の主観を入れる余地がないほどに一意的に定められているわけではない。従つて、内申書の作成にあたつて、ある程度の裁量権が認められるべきは当然である。
2 しかし、既に述べたとおり、行政行為を為すにあたつて裁量権が与えられていても、その権限は各種の限界の内部で行使されなければならない。このことは、中学校長の内申書作成にあたつてもあてはまる。そこにおける裁量権の限界には幾つかのものがあるが、具体的な限界の内容を考察する前に、まず内申書作成に対して司法審査が及ぶべき範囲について考察することとする。
(一)これについては、原審における被上告人らのように、いわゆる「特別権力関係論」の立場から、中学校においては、校長は、法規の明文の定めがない場合であつても、生徒を包括的に支配する権能が与えられており、これについては司法審査が一切及ばないとする考えがないわけではない。しかし、「特別権力関係論」が、「法の支配」を認める現行憲法秩序の中では認められないものであるばかりか、「特別権力関係論」の内容自体が、論者により異なり、未だ確立したものではなく、この概念を用いることによつては何事も解決しないといわざるをえないのである。この点については、名古屋高裁金沢支部昭和四六年九月二九日判決(判例時報六四六号一二頁)が、「講学上のいわゆる公法上の特別権力関係なる概念が、一般権力関係において妥当する法秩序とは異なる特別の法律関係の成立することを明らかにした点で功績のあることは否定できないが、しかし、特別権力関係において発動される諸々の処分について司法審査権がどの範囲にまでおよぶかについては必ずしも判例学説上も一致しているわけではないのである。……特別権力関係内の行為であるからという理由だけで原則として司法審査権を排除するものとする根拠としては十分合理的でないといわざるを得ない。」と指摘するとおりである。最高裁判所においては、従前より、賢明にも、すべてを解決するマジック・ワードとしての「特別権力関係」との用語の使用を避け、それぞれの場合に応じて、司法審査の及ぶべき範囲を確定しようとしているが、この方法論は正しいものであり、本件においてもこの態度が維持されなければならない。
(二)この立場から、公教育機関の為した処分に対する司法審査の範囲を検討したものが昭和五二年三月一五日に下された最高裁の二判決(民集三一巻二号二三四頁、同二八〇頁である。前者においては、大学における授業科目の単位授与(認定)行為と司法審査について判示され、後者においては、国公立大学における専攻科修了認定行為と司法審査について判断が下されたが、この両判決では、司法審査の対象となるか否かの判断基準は、「一般市民法秩序と直接の関係を有するか否か」であるとされた。これにより、「単位の認定」については、通常は、「一般市民法秩序と直接の関係を有するものではない」として司法審査の対象とはならないと判示され、他方、「専攻科修了の認定」については、「国公立の大学は、公の教育研究施設として一般市民の利用に供されたものであり、学生は、一般市民としてかかる公の施設である国公立大学を利用する権利を有するから、学生に対して国公立大学の利用を拒否することは、学生が一般市民として有する右公の施設を利用する権利を侵害するもの」であるとして、司法審査の対象になると判断されたのである。ところで、司法審査の有無についてこの両判決で採用された基準、すなわち当該問題が、「一般市民法秩序と直接の関係を有するか否か」で判定するとのアプローチを本件に適用すれば、本件に司法審査が及ぶべきことは明らかである。既に述べているとおり、本件は中学校の作成にかかる内申書によつて、上告人が公立高校を含む高等学校への進学を妨害され、かつ、当該内申書の記載内容が、上告人の思想・信条・表現の自由を犯したというものである。このうち、前者については、前記最高裁判決のうち、「専攻科修了の認定」について判示した部分がそのままあてはまる。すなわち、「公立の〔高校〕は、公の教育……施設として一般市民の利用に供されたものであり、〔生徒〕は、一般市民としてかかる公の施設である〔公立高校〕を利用する権利を有するから、〔生徒〕に対して〔公立高校〕の利用を拒否することは、〔生徒〕が一般市民として有する右公の施設を利用する権利を侵害するもの」であつて、このことは、当然に司法審査の対象となるのである。また後者については、そこで問題とされている思想・信条・表現の自由とは、正に、民主主義体制の存立基盤であるところの自由であり、生徒がこれらの自由を一般市民として有していることはいうまでもない。従つて、これらの自由が犯された場合に、これに対しては、当然、司法審査が及ぶのである。
以上を要するに、本件においては、「特別権力関係論」によつて司法審査を排除することはできず、かえつて、従前の最高裁判決が示してきた考え方に従えば、「一般市民法秩序と直接に関係」するものとして、司法審査が及ぶのである。
(三)なお、右の最高裁昭和五二年三月一五日判決(民集三一巻二号二八〇頁)においては、「大学における修了科認定」と対比して、、「小学校、中学校及び高等学校の卒業」は、「児童又は生徒の平素の成績の評価という教育上の見地から優れて専門的な価値判断をその要素としている」とされており、これについては、「国家試験における合格、不合格の判定は学問または学術上の知識、能力、意見等の優劣、当否の判断を内容とする行為であるから、その試験実施機関の最終判断に委せられるべきものであつて、その判断の当否を審査し具体的に法令を適用して、その争を解決調整できるものとはいえない」(最高裁昭和四一年二月八日判決、民集二〇巻二号一九六頁)との判示と共通するところがあるかのようにもとられうる。しかし、本件の対象は、右であげられた「中学校の卒業」ではないから、右に述べられたところはそもそも適用がない。のみならず、本件で問題とされているのは、上告人の思想・信条・表現に関する事項であり、これについては、国公立の教育機関がその内容にわたつて評価を加えてはならないものであり、あるいは少なくとも入学者選抜の考慮事項とはならないものであるから、いずれにせよ、これらの事項の内申書への記載にあたつては、「教育上の見地からする優れて専門的な価値判断」が働く余地はない。従つて、これら技術的、専門的事項については司法審査が及ばないとした前記判決は、本件には適用がないのである。
3 以上のとおり、本件において司法審査が及ぶことは明らかであるので、次に、前掲の規則の下での裁量権行使における、具体的制限について考察する。まず、いかなる法令上の権限もそれが憲法の枠内で行使されなければならないのは当然であつて(憲法九八条一項)、このことを本件との関係でいうならば、校長は、内申書作成という裁量権の行使にあたつては、思想・信条・表現の自由を含む生徒の基本的人権を犯してはならないのである。これに加えて、法規の目的から生じる制限がある。規則五四条の三によつて、中学校長は、内申書を高校あて送付しなければならないとされているが、内申書の目的は、同五九条一項で明らかにされているとおり、入学者選抜の資料とするところにある。従つて、内申書に記載されるべき事項とは、この目的、すなわち「入学者選抜」に関連したことでなければならず、これと無関係に、中学校がその生徒について知りえた事実(情報)を内申書に記載してはならないのである。既に、第二点において詳述したとおり、中学校が自校に在籍する生徒について知りうる情報は多様であつて、そのすべてが入学者の選抜に関連しているわけではない。校長は、これらの情報のうち、内申書の目的である入学者の選抜に関連したものだけを、内申書に記載することが許されているのであつて、これを超えて無関係な情報を内申書に記載することは、規則によつて校長に与えられた権限を逸脱するものである。これを、前記の裁量権行使における制限との関係でいえば、目的と無関係の事項を記載することは、処分が、行政庁に当該権限を与えた法の趣旨・目的に従つて為されたと認められない場合(前記2)、また、処分を為すにあたつて、「考慮されてはならない事項が考慮されている」場合(前記6)に該当するのである。
以上を本件に即して見るならば、本件においては、既に述べたとおり、上告人の思想・信条及びそれに基づく表現がマイナス評価の対象とされているが、このことが、これらの自由を保障した憲法の下で許されないことは多言を要しない。国家は、人の内面に関するこれらの事項については、いかなる意味においても評価をしてはならないということが、これらの自由保障の中心的意味合いなのである。これらについてマイナス評価を与えるということは、この規範に真向から反するものに外ならない。なお、思想・信条・表現の自由を含む基本的人権の保障に関して、最高裁昭和五三年一〇月四日判決(民集三二巻七号一二二三頁)は、外国人には、「在留期間中の憲法の〔第三章の諸規定による〕基本的人権の保障を受ける行為を在留期間の更新の際に消極的な事情としてしんしやくされないことまでの保障が与えられているものと解することはできない」と判示した。しかし、上記判示の論拠とされているのは、「外国人に対する憲法の基本的人権の保障は……〔法務大臣による裁量という〕外国人在留制度のわく内で与えられているにすぎない」という、日本国民と比較しての外国人の地位の特殊性であるから、この論拠は本件には適用がない。むしろ、右の論拠の中に黙示的に表されているところは、日本国民には、「憲法の基本的人権の保障を受ける行為」を、行政庁が裁量行為を為すにあたつて、「消極的な事情としてしんしやくされないとの保障が与えられている」ということであり、本件の上告人も、内申書の記載に際して、その基本的人権の行使として行なつたことがらについては、マイナスの評価を与えられないとの保障が与えられているのである。
また、前記内申書の目的との関連についていうならば、上告人の内申書に記載された事項は、すべてその思想・信条の自由及びそれに基づく表現に関連している。これらの事項が、公立高校の入学者選抜にあたつてそもそも考慮されてはならない事項であることは前述のとおりである。これらの事項を内申書に記載することは、内申書を作成する目的とは無関係の目的にこの権限が行使されたものであり、かつ、処分に際して、考慮されてはならない事項が考慮されたことになるのである。このような内申書を作成することは、規則によつて校長に与えられた権限を踰越するものである。
以上のとおり、原判決は、内申書作成にあたつて学校長は、生徒の思想・信条・表現に関する事項の如き、入学者選抜に関連しない事項を記載し、かつ、これらの事項をマイナス評価しうるとしたものであり、この法令解釈の誤りが判決に影響を及ぼすべきことは明らかである。よつて、原判決は、破棄を免れない。
4 校長の内申書作成にあたつて課せられる制限は、右に述べたところに尽きるものではない。内申書は、前述のとおり、入学者選抜の資料となるものであり、校長がその権限行使にあたつて、当該生徒の進学を妨害しようとする動機その他教育目的外の目的に基づく行使あるいは恣意的に行使(前記1の場合)が許されないのは当然である。本件の内申書は、上告人に報復し、その進学を妨害しようとの不正な動機に基づき作成されたものであり、かつ、上告人に対する平常の評価である、家庭通信票中の「行動の記録と所見」欄中の記載と著しく異なり、恣意的に作成されたものである。原判決は、このような場合に校長の権限逸脱が生じ、その権限行使が違法となることを看過したものであり、その解釈の誤りが判決に影響を及ぼすべきことは明らかである。よつて、原判決は、破棄を免れない5 更に、行政庁の権限行使が、常に、比例原則及び平等原則に違反してはならない(前記4の場合)ことはいうまでもない。この判断にあたつて特に注意すべきは、当該行政処分の性格である。当該の処分が対象者に与える影響が重大であれば、行政庁に与えられた裁量の幅は小さいのであり、あるいは逆に、当該処分に対する行政的な不服申立手続ないしは救済手続が完備していれば、事後的な紛争処理が可能であるから、当該処分の段階での裁量の幅をある程度大きく認めても差し支えないことがあろう。最高裁判所も、前掲昭和四八年九月一四日の判決で、行政処分の内容によつて裁量の幅が異なることを認め、「ひとしく適格性の有無の判断であつても、分限処分が降任である場合と免職である場合とでは、……その結果において〔 〕、降任の場合は単に下位の職に降るにとどまるのに対し、免職の場合には公務員としての地位を失うという重大な結果になる点において大きな差異があることを考えれば、免職の場合における適格性の有無の判断については、特に厳密、慎重であることが要求されるのに対し、降任の場合における適格性の有無の判断については、公務の能率の維持およびその適正な運営の確保の目的に照らして裁量的判断を加える余地を比較的広く認めても差支えないものと解される」としたのである。
この観点から、内申書の性格を見るならば、これが最終的・秘密的・一方的な特異なものであり、かつ、その対象者に与える影響が極めて重大なものであることはいうまでもない。すなわち、内申書は、在学中の「家庭通信表」とは異なり、卒業直前の進学時に下されるものであつて、中学校がその生徒に与える評価としては最終的なものである。また、内申書は、その内容を生徒に開示しないまま、中学校長から高校等へ直接送付され、生徒は、現行法制度の下では、その内容を一切知ることができないのである。このことは、内申書の記載内容が争われている本裁判においてすら、一審、原審ともに、その内容を現実に了知することなく判決を下さざるを得なかつたことからも明らかであろう。更に、現行の法制度の下では、内申書の内容については生徒・親の側には何らの権能(開示請求権、訂正申立権等)も認められず、これについては、教師(校長)の側が一方的に決定するところとなつている。この点について、再度、「家庭通信表」の評価と比較するならば、「通信表」においては生徒・親は、内容を知り、そのうえでどのような事実に基づいて評価が為されたのかにつき、教師に質すこともできるのであつて、そこでは、ある程度、生徒親からの対応が為されうるのである。これに対して内申書では、右に述べたとおり、基礎となるべき事実の取捨選択ならびにその評価に関与するのは教師だけであり、その一方的な性格は、際立つているといわなければならない。以上を要するに、中学校の為した最終評価である内申書については、その内容が開示されないこともあいまつて、生徒は何らの対応もなしえないのである。これは、「家庭通信表」における評価によつて、生徒が、そこで指摘された事項について反省し、あるいは改めるなどすることができ、教育的効果がこれによつて上がりうるのとは著しい対照をなしている。
このような内申書の性格は、たとえばアメリカ合衆国における制度と比較してみるならば、その特異性は、いつそう明瞭となる。アメリカ合衆国においては、一九七四年の「親及び学生のプライバシー法」(いわゆるバックレー法、20U.S.C.1232g)において、学生及び親の、教育過程でのプライバシーの権利を広範に認めている。この法律の下では、教育機関は、学生に関する情報を、学生または親の事前の同意なしに第三者に開示してはならず、また、学生が入学を希望する上級学校に対する情報の開示は許されるものの、学生から請求がある場合には、当該上級学校へ送付した報告書を学生に開示しなければならないとされている。更に、より一般的に、学生または親には、教育機関が当該学生に関して有する教育記録の内容について争う聴聞の機会が与えられなければならず、これにより、学生または親は、不正確、ミスリーディングその他不適切な情報を記録から削除し、あるいは記録で扱われている事項についての親の側からの説明を記録中に挿入することができるのである。アメリカ合衆国におけるこのような現行制度と比較するとき、日本における内申書が、最終的・秘密的・一方的なものであることは、歴然としているといつてよいであろう。
右のように、その内容も明かされず、また間違つた情報についてもその訂正の機会すら与えられない内申書が、生徒に与える影響は極めて大きいものである。内申書の記載によつては、生徒の知らないところで、本人の進学の可能性を事実上閉ざしてしまうこともできるのである。この点については、原判決も、「本件調査書のうち、備考欄等の記載は、率直に云つてこの調査書の送付を受けた高等学校側で〔上告人〕を入学させることをためらわせる感のあるものであることは否定できない」として、内申書の記載によつて生徒の進学が妨害されることがあることを認めている。当該生徒が教育の機会を奪われるという点では、内申書による進学妨害は、退学処分にも比すべきものである。しかし、内申書による進学妨害の場合には、通常の退学処分とは異なり、その理由が明示されず、不服申立の手続すらないのである。
右のような現行の内申書制度がそもそも許されるものであるか否かは、しばらく措くとしても、少なくとも、このような性格と機能を有する内申書の作成にあたつては、その作成権者の裁量権限が狭いものと解されなければならないのは、右昭和四八年最高裁判決からも明らかである。右判決の表現を用いれば、校長は、内申書の作成にあたつては、「特に厳密、慎重であることが要求されるの」である。このような場合には、前述の平等原則比例原則が要請される度合いが、いつそう強いことはいうまでもない。
ところで、平等原則とは、等しかるべきは等しく、等しからざるはそのように取り扱うべしとの原則であり、また、比例原則とは、本来、国民に加えられる行為の自由の制限は警察事実の程度に正当に比例すべきであるとの警察原則であるが、これが、広く裁量行為一般にまで、拡大適用されるに至つているものである。ここで注目すべきは、平等原則・比例原則ともに、その適用にあたつては、関連事実全体の正確な把握が不可欠であるとの点である。すなわち、平等原則における、等しい、等しくないとの判断は、すべての関連事実を適正に考慮したうえで初めて下しうるものであり、全体のうちの一部を考慮対象としただけでは、この判断は為しえないのである。比例原則においても、このことは全く同様である。(警察)「事実の程度に正確に比例する」か否かの判断は、当該事実が全体の中で占める位置を知らなければ行ないえないことは当然である。単独に取り出せば同一の事実であつても、これに対する評価が、それを取り巻く事実によつて大きく異なることがあるのは、日常よく観察しうるところである。要するに、平等といい、比例というも、これらはいずれも規範的概念であり、評価の結果でしかないのである。その判断のために、関連事実全体を適正に考慮することが必要とされるのは当然である。
この観点から原判決を見れば、この判決は平等原則・比例原則を十分に理解していないといわざるをえない。原判決は、内申書中の「行動及び性格の記録」欄の評定については「少なくとも備考欄等に記載された前記の事実関係にあやまりのないことは前示のとおりである」との認定から、直ちに、「右事実からすれば、……校長が各C評定の項目について『特に指導を要する』とした判断は、……一見明白に不合理であるとは到底いえない」との結論を引き出したのである。また、備考欄等の記載については、前述のとおり、「中学校長は〔要綱及び取扱い〕に従う限り、如何なる事項を如何なる程度において記載するかについて、広範な裁量権を有していることはいうまでもない」としたのである。驚くべきことに、原判決は、「本件C評価の前提となつた事実関係の全体についてはこれを知るよしもないが」としたうえで、前述の推論を展開したものであつて、ここにおいては、全体的評価などは初めから放棄されているのである。原判決のこれらの判示によれば、校長は、生徒について知りうる無限の事実のうち、評価の前提となりうる事実を自由に選択しうるのであり、このようにして適宜拾い出した断片的事実から、生徒にC評定との不利益処分を課してよいことになるのである。原判決は、事実に対する評価が「一見明白に不合理である」場合には校長の裁量が違法とされるかのように述べているが、評価の基礎となるべき事実を校長が自由に選択でき、これ以外の事実は考慮の対象としなくてよいとしている以上、右の判示は、裁量権の行使に対する限界となりえない。原判決が述べているのは、結局、校長の内申書作成権限に対する司法審査は、そこで取り上げられ、評価の基礎となつた事実が真実であるかどうかの一点に限られるということでしかない。
しかし、前述のとおり、校長は、内申書作成にあたつては、極めて限られた裁量しか有しておらず、「特に、厳密、慎重で」なければならないのである。校長が右制限を逸脱して、恣意的に選び出した事実のみを評価の対象とすることは許されない。評価の対象とされた事実が、それ自体を独立して見ればともに真実といいうるものであつても、ある生徒についてはその有利となる事実のみを取り出してA評定を行ない、別の生徒についてはその不利となる事実のみを取り出してC評定を行なうことが平等原則に違反することは明らかである。しかるに、原判決によれば、校長はこのような選択・評価することもできるという結論にならざるをえないのである。同様に、ある生徒に関する全体事実のうち、単独で見れば虚偽であるとはいえないまでも、全体の中でなければ正しい評価ができないような事実であつて、当該生徒に不利なものだけを選んでC評定をすることも、原判決の下では許容されざるをえないのであるが、このことが比例原則に反することは明らかである。本件において、上告人は、その思想・信条・表現の故に、他の生徒とは異なつて、「送付を受けた高等学校側で……入学……をためらわせる感のある」内申書を作成されたものであつて、これはまさしく、平等原則に違反するところである。更に、上告人に対するC評定が、備考欄等に記載された事実(これが本来は、入学者選抜の考慮対象とはなりえないことは既に述べたとおりである)のみを基として行なわれたものであり、原判決もこれを容認していることは、右の判示から明らかなところ、このことが比例原則に反することは、右に述べたとおりである。仮に、生徒の行為に何らかの問題があつたとしても(原判決は、上告人の行為が、「生徒会規則に反し、校内の秩序に害のある」としているが、このうち前者については、生徒会規則に原判決が前提としたような規定はなく、その認定を誤つたものであるし、後者に至つては、何らの主張・立証もない)、「可塑性を持つ存在として子ども(学力テスト判決)に対する、内申書による評価は、「特に、厳密、慎重でなければならず、その意味では謙抑的でなければならない。しかるに、上告人は、原判決すら「赤裸々に過ぎ、偏狭の感あるを免れない」と指摘するような表現での内申書を作成されたものであつて、このことは、明らかに比例原則に反するものである。再説すれば、本件で問題とされている事項は、そもそも評価の対象とされるべきではなかつたのでありこれを記載したことは誤りである。しかし、上告人の行為が仮に何らかの意味で評価の対象となるものであつたとしても(その証明はなされていない)、その行為だけを取り出して記載し、かつ、本来は全体評価であるべき評価を、その行為だけに基づいて行なつた、本件の校長の行為は、裁量の範囲を逸脱したものである。原判決は、規則五四条の三によつて、中学校長にはこのような偏頗な評価を為しうる裁量が与えられていると解釈し、本来は裁量権の逸脱または濫用と判断されるべき本件において、司法判断を加えなかつたものである。
以上のとおり、原判決は、学校教育法四〇条、二八条及び規則五四条の三の下では、学校長は平等規則・比例原則を無視しても内申書を作成しうるとするものであり、この解釈の誤りが判決に影響を及ぼすべきことは明らかである。よつて、原判決は、破棄を免れない。
第五点 原判決が上告人の卒業式への出席を拒否した中学校長の措置が適法であるとした判断は、教育を受ける権利を保障した憲法二六条の解釈を誤まり、かつ、学校教育法四〇条、二八条三項の解釈をも誤つており判決に影響を及ぼすことが明らかな法令違背がある一、まず、原判決は、野沢校長が上告人の卒業式への出席を拒否したこと、(以下分離卒業式という)が違法であるとの上告人の主張を「中学校を卒業しようとする者は、学習権の一内容として卒業式に出席する権利を有し、この権利は中学校長の学校管理運営権限をもつてしても制限しえないものである」と要約している点の誤まりを指摘しなければならない。
上告人主張は端的にいえば中学校長がその学校管理運営権限を行使するにあたつて、その裁量の限界を越えたというものであつて、この裁量権限の限界如何を判断するにあたつては、当該裁量行為の趣旨および目的を明らかにすべきところ、卒業式への出席は、憲法二六条で保障された生徒の学習権の一内容であることを主張しているのである。
しかるに、原判決は右上告人の主張を曲解して、上告人が学習権・卒業式に出席する権利と、中学校長の学校管理運営権限との優劣を論じたものであるかの如く捉えており、このことは後に指摘するように、卒業式の実施に関する中学校長の学校管理運営権限の裁量についての解釈を誤まり、裁量の限界を明確に判断しないという誤まりを導いているのである。
二、原判決は、野沢校長の卒業式実施に関する裁量の限界について誤まつた解釈をしている。
1 卒業式実施に関する基準について
(一)原判決は、本件分離卒業式につて、
1 上告人の意図した卒業式斗争が、卒業式の場に混乱を惹き起すものであることは疑問の余地がないこと
2 卒業式に出席する権利を実定法上認めるべき根拠のないこと
3 上告人に受動的な学校側あるいは教師側に協調しつつ受け取る権利という意味での学習権を行使する意思のなかつたこと
を認定したうえで、右措置は違法でないとした。
しかるに原判決の右判断は、中学校長の学校管理運営権限に基づく裁量行為の限界についての解釈を誤まるものである。
原判決も、野沢校長の本件分離卒業式の措置の当否が司法審査の対象たりうるものであることを否定せず、右措置が学校教育法四〇条、二八条三項に規定する中学校長の学校管理運営権限に基づく裁量行為と解しているものと思われるが、原判決は、前記の事情を漫然と挙げて分離卒業式の措置が適法であるとしただけで、右裁量行為の適否を判断するにあたつて当然必要とされる右裁量行為の限界がどのようなものであるかについては全く判断を示していない。
行政上の裁量行為については、第四点一、で詳細に述べたとおり、憲法・法令あるいは条理等による限界が存するのであり、その限界を越えるときは、当該裁量行為は違法となる。裁量行為の適否を審査するにあたつてはまず右限界がどのようなものであるかを確定し、そのうえで、当該裁量行為の適否を判断しなければならないのである。
(二)中学校長が学校管理運営権限を行使するにあたつて、最も重要なことは、当該管理運営行為・措置がその有する本来の趣旨・目的に適つて行われなければならないことである。
中学校長が卒業式を実施するという学校管理運営権限を行使するにあたつては、卒業式の有する教育上の意義が十分実現できるようにしなければならない義務を負つている。そこで、中学校における卒業式の意味が問題となるのである。中学校における卒業式とは、単なる三年次終了の証を生徒に交付する場にとどまらず、また各年次における始業式や終業式とも異なり、中学校における卒業式とは、教師ならびに共に学び共に遊んだ生徒たちが、教育を受け、互いに学び合い、成長し、義務教育課程を修了したことを一緒に確認し喜び合うとともに、卒業後に各自が踏み出すべき新しい人生への決意を固める場であり、このようないわば一つの人生の節に当る機会に、校長・教師その他関係者から祝福や有益な助言を与えられる場である。その意味で中学校の卒業式は教育そのものの一環であり、中学校における最後の重要な教育の機会である。かかる卒業式は、卒業生全員が出席し一堂に参集して行うことこそ義務があるものである。
従つて、このような意義を有する卒業式に卒業する生徒を出席させるかどうかは、教師あるいは中学校の全く自由な判断に委ねられるべき事柄ではなく、生徒にとつて卒業式に出席する機会を保障しなければならない。
この意味において、生徒が卒業式に出席することは権利性を有するのである。卒業式に出席する機会が保障されなければならないのは、このように卒業式が重要な教育の場であつて、生徒にとつては憲法二六条に保障された学習権の具体的一内容となつているからである。
その結果、ある卒業する生徒を卒業式に出席させないことは、物理的(施設や人数の制約など)事由による場合のほか、当該生徒を出席させた場合、卒業式の前記教育上の意義を没却させる事態が生じる高度の蓋性然が予測される場合に限られるといわなければならない。
(三)しかるに原判決は、1「具体的な学習権(卒業式に出席する権利)を実定法上認めるべき根拠はない」として、卒業式が憲法二六条で保障された生徒の教育を受ける権利の一部であることを否定したばかりでなく、2憲法二六条の「教育を受ける権利」についても全くその解釈を誤まつている。1については前記(二)で述べたところで原判決の判断が誤まつていることは明らかであるので、ここでは、原判決の憲法二六条についての解釈の誤まりを指摘する。
原判決は、「およそ学校教育は教育を施す側とこれを受ける側の協調なくしては成立しえないものであるから、中学校生徒の学校に対する学習権とは本質的に受動的な学校側あるいは教師側に協調しつつ教育を受け取る権利(憲法二六条も「教育を受ける権利」という表現を用いている。)であつて、学校側、教師側と対立し、これと闘う権利ではない」と判示して、中学校生徒の学習権はおよそ受動的なものとしている。
なお、ちなみに、「協調」などという没教育的で非憲法的な言葉を、この場で用いることの誤まりは特に指摘しなくても明らかであろう。また、「施す」者と施しを「受ける」者との間には一方的服従関係があるだけで協調関係などありえない。
今日「教育を受ける権利」が、単なる就学の権利や与えられた教育の機会を受動的に享受する権利を意味するとする考えを、他に見出すことは極めて困難である。
教育の前提となる学習は、そもそも主体(子ども)が所与の条件を選択しながら成長・発達し、自己の人格を完成・実現する過程であり、憲法二六条の解釈に関する指導的判例である学力テスト判決においてもかかる学習こそが「教育を受ける権利」の本質であることを認めて「(憲法二六条の背景には)……特にみずから学習することのできない子どもは、その学習要求を充足するための教育を自己に施すことを大人一般に対して要求する権利を有するとの観念が存在していると考えられる」と判示し、「子どもの教育は、教育を施す者の支配的権能ではなく、何よりもまず、子どもの学習をする権利に対応し、その充足をはかりうる立場にある者(親・教師・学校・国家等)の責務に属する」(カッコ内代理人)としている。他方右判決は子どもが「自由かつ独立の人格」であることも判示している。このように生徒(